松元稲穂の事績の継承を願う松元正照さん=南九州市知覧町郡
多くの人に親しまれるラジオ体操。昭和の初め、体操を考案した一人に鹿児島県南九州市知覧出身の松元稲穂(いなほ)=1883~1952年=がいた。孫の松元正照さん(82)=同市知覧町郡=は、国民の健康を願った稲穂の思いを伝えたいと、著作や写真など資料の整理に努めている。
正照さんによると、稲穂は鹿児島師範学校から日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)に進み、東京慈恵医院医学校(東京慈恵会医科大学の前身)や女子師範学校で教員になった。教職の傍ら、「国民の健康状態改善には、呼吸器と消化器を強健にする必要がある」と独自の体操を考案。25(大正14)年、東京の自宅に「国民体操研究所」を創設し普及に努めた。
同年に日本でラジオ放送が始まると、当時の逓信省が社会的幸福増進事業としてラジオ体操を制定することにし、稲穂ら6人を考案委員に選定。28(昭和3)年、国民保健体操として放送が始まった。一連の経緯は「素晴らしきラジオ体操」(高橋秀実著)に詳しい。
稲穂の長男で、軍医だった正照さんの父正治さんは44年に戦死。2歳だった正照さんに父の記憶はほとんどないが、講演などで全国を飛び回っていた稲穂は覚えている。「祖父の白いひげをいじって遊ぶと、嫌な顔もせず笑っていた。優しい人だった」という。
母親が保管していた稲穂の著作などを引き継いだ正照さん。2022年には東京のいとこから、体操学校の卒業証書や、米国を視察した際のパスポートなどを新たに託された。中には骨格や内臓を詳細に記した人体図もあり、ラジオ体操に携わる前から医学知識を基にした体操を考案していたことが分かるという。
1991年に旧知覧町教委が作成した郷土教育資料「先人に学ぶ」で「ラジオ体操生みの親」として稲穂を紹介しているが、近年はあまり知られていない。正照さんは「何よりも多くの国民が健康になることを望み、研究を重ねて独自の体操を作り上げた稲穂の思いを知ってほしい」と話す。
「昭和百年」の今年は、日本のラジオ放送開始から100年になる。ラジオ体操も昭和の時代と共に国民に親しまれ、今に続いている。