ボンタンアメ
鹿児島市のセイカ食品が製造・販売するボンタンアメは、2025年で発売100周年を迎えた。もち米と水あめ由来の食感と、鹿児島特産のかんきつ類「ボンタン」の風味が特徴で、製法やパッケージはほぼ当初のまま。戦時下での製造中止などを乗り越え、時代や流行に左右されない販売戦略により、変わらぬ味を全国へ届けている。
ボンタンアメが生まれたのは、日本でラジオ放送が始まった1925年。玉川浩一郎社長(59)の曽祖父で初代社長の壮次郎氏が、熊本銘菓「朝鮮飴(あめ)」を切って遊ぶ社員を見て、キャラメルのように箱詰めすることをひらめいた。
ボンタン果汁を練り込んだ求肥(ぎゅうひ)餅をくっつき防止用のオブラートで包んだあめは当時、社運をかけた新商品だった。発売開始直後にはチンドン屋を編成し全国行脚に乗り出した。28年には払い下げの軍用機で、空からまく宣伝を計画。金が工面できず実現しなかったものの新聞で話題となった。壮次郎氏は「これだけ世間が騒いでくれたから、(軍用機が)飛んだも同じだ」と豪快に笑っていたという。
太平洋戦争下では原料の砂糖が入手できず、製造中止に追い込まれた。さらに45年6月17日の鹿児島大空襲で本社工場を焼失。再開にこぎ着けたのは朝鮮戦争特需に沸いた50年で、現在の唐湊(とそ)工場に移ったのはそれから2年後だった。
自社の販売店舗を持たないセイカが戦後、全国区になった背景には南九州エリアの国鉄で取り扱われた経緯がある。当時のコンセプトは「旅のお供に」。鉄路に沿って関西圏や首都圏へ販路を伸ばし、ポケットにすんなり入るサイズも相まって駅売店の定番商品になった。
高度経済成長期には、多くの若者が集団就職で鹿児島を離れた。交通網も未発達でネットもない時代。家族や親族が仕送りの荷物に添えたこともあり、都市部で働きながら故郷を懐かしむ品として、いつしか性別や年齢を問わないなじみの客を獲得していった。
唐湊工場では2024年度、1日3万1000箱約44万粒を製造した。ボンタンアメは全てここから届けられる。工場に入ると、爽やかな甘い香りがふわりと漂う。機械化も進むが、最後は独特の食感がある生地を、従業員が手作業で一つ一つ検品して箱詰めする。
ボンタンアメのキャッチコピーは「ときどき、ずっと。」。1年に1個、10年に1個でも手にとってもらえればいいという思いが込められている。「ふと見かけて、昔の記憶とともに思い出してくれればうれしい」。浩一郎社長は次の100年を見据えている。
◇尿意抑えられる? SNSでバズった
背景の青、ボンタンの黄色が基調の南国らしいパッケージデザインは、一目でボンタンアメと分かるほど浸透している。ボンタンがイラストから写真になるなど若干の変更はあるものの、発売以来ほぼ同じだ。
人気を保ち続ける理由を探った調査では「青4割、黄3割の色面積比率が、長く愛される法則性」という研究結果もあるほど。2016年度にグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞した。ボウルやマグカップといった食器類、革のカードケースなど、他社とコラボした派生商品も多く生まれている。
最近は交流サイト(SNS)で「(原料の)もち米が体内で水分とくっつき、尿意が抑えられる」と「バズ」り、若者にも知られるように。でんぷんでできた薄いオブラートを「包装紙」「食べられない」と勘違いしないよう注意書きも欠かさない。
登録商標のロゴは、島津家の家紋「丸に十字」に、お菓子の「菓」を崩したものと言われている。その島津家ゆかりの庭園で、世界文化遺産に登録された仙巌園(鹿児島市)でも特設コーナーを設ける。インバウンド(訪日客)からの引き合いも強いという。
◇販売当初は1箱5銭だった
鹿児島のボンタンは江戸時代、阿久根市に漂着した中国船の船長、謝文旦(しゃぶんたん)を助けたお礼にもらった果実の種を栽培したのが起源とされる。ボンタンは、船長の名前がなまったものとみられ、実は1キロ前後、大きいもので2キロほどになる。ボンタンアメは、この外皮の一部や果汁を原料にしている。販売当初の価格は1箱5銭(セイカ食品推測)。現在は1箱14粒入り156円(税込み、参考小売価格)。