戦時中の女子の憧れは従軍看護師。「欲しがりません勝つまでは」と言われてきたから、日本が負けるとは思っていなかった【証言 語り継ぐ戦争】

2025/07/03 18:00
戦時中の生活を振り返る中村妙子さん=霧島市隼人町小田
戦時中の生活を振り返る中村妙子さん=霧島市隼人町小田
■中村妙子さん(92)=鹿児島県霧島市隼人町小田

 現在の霧島市霧島田口で、9人きょうだいの5番目に生まれた。1番上の兄は長崎の航空隊に入隊していた。

 終戦直前に、兄から特攻攻撃をするとの手紙が届いた。家族で霧島神宮に参拝して「ふとか戦艦を沈めてくれ」と祈願した。ただ、出撃する前に戦争は終わり、兄はすぐに家に帰ってきたので家族みんな驚いた。進駐軍に見つからないよう、近くの新湯温泉に10日ほど身を隠したという。

 終戦時、私は霧島村立大田国民学校の6年生だった。戦争が終わる数カ月前から、6年生の教室は兵隊の宿舎になった。天気が良ければ近くの天子神社の木陰で、雨の日は防空壕(ごう)の中で授業を受けた。

 日用品は配給制で靴もなく、はだしで学校に行っていた。霧島には戦車部隊がいて、戦車が通った後の道路は、砂利が掘り起こされていて痛かった。勉強だけでなく仕事もあり、兵隊の指揮で畑の水はけをよくするための作業をしたり、トイレの便を運んだりした。人手の足りない家に行き、農作業を手伝うこともあった。

 空襲警報が鳴ると防空壕に逃げ、「大人の言うことよく聞いて/慌てないで/騒がないで/落ち着いて」と歌っていた。鹿児島市のいとこが歌っていた「大きな手柄を立てたのは/若い9人の勇士です」という真珠湾攻撃の軍歌も今も口ずさめる。

 8月15日は夏休みで、午前中はサツマイモの草取りを手伝い、昼食後は川へ行っていた。遊び道具は何もなく、水遊びが一番の楽しみだった。父親が走ってきて、急いで家に戻るよう言った。ラジオの前に座り、家族そろって天皇陛下の玉音放送を聞いた。

 両親は涙ぐんでいたが、戦争に負けたというのがどういうことか、子どもには分からなかった。男の子は兵隊に、女の子は従軍看護師になるのが当時の子どもの憧れだった。「欲しがりません勝つまでは」と言われてきたので、負けるとは思っていなかった。

 戦争が終わると、校庭に穴を掘って兵隊が使っていた銃や毛布などを焼いた。再び教室で授業が受けられるようになり、使っていた教科書は、先生が読み上げたところを墨で黒く塗りつぶした。

 年が明け、汽車で県立国分高等女学校の入試へ向かうと、爆弾が落ちた跡に水がたまっていた。入学したものの制服はなく、着物の裏地を使ってつくった。なんもなか時代で、不自由が一番いやだった。戦争でいいことは何もない。

(2025年7月3日付紙面掲載)

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >