JR鹿児島駅の慰霊碑に花を手向ける参加者=27日、鹿児島市浜町
太平洋戦争末期の鹿児島駅空襲から80年となる27日、鹿児島市山下町のかごしま市民福祉プラザで同空襲を学ぶ集いがあった。小学生から90代の市民約20人が参加。体験者が空襲について語る映像の視聴後、駅の1番ホームの奥に立つ慰霊碑を訪れ、花を手向けた。
同市永吉3丁目の比良順子さん(76)は、当時21歳だった母橋口キミ子さん(故人)が空襲に遭った。旧加世田町(現南さつま市)の自宅へ帰ろうと駅改札に並んでいたところ、右上腕に機銃掃討の銃弾を受けたという体験を語り、「母からもっと詳しく話を聞いておけば良かったと悔やまれる。戦争で犠牲になる人や悲しむ人が増えてほしくない」と訴えた。
市戦災復興誌などによると、空襲当日は快晴。午前11時50分に米軍機の爆撃が始まった。鹿児島線と日豊線の列車が到着した直後で駅はごった返しており、420人が死亡、650人が負傷した。駅舎は全焼した。殉職者の慰霊碑には、改札担当や駅手だった10〜50代の12人の名前が刻まれている。
集いは、鹿児島市を拠点に活動する「戦争を語り継ぐ集い」が開いた。世話人の山下春美さん(57)=同市東坂元1丁目=は「犠牲者一人一人に人生があった。戦争で奪われた彼らの未来を、平和につないでいくという気持ちを多くの人と共有できたら」と願いを込めた。