海軍岩川基地の地下発電所跡で調査をする慶応大学の安藤広道教授=曽於市大隅町月野
鹿児島県内外で戦跡を調査・研究する慶応大学の安藤広道教授(60)=考古学=が曽於市の大隅中央公民館で、岩川航空基地跡の保存と活用について講演し、基地建設の背景や戦跡を保護する上での課題を指摘した。講演要旨を紹介する。
岩川航空基地は1944(昭和19)年5月に工事が始まった。7月にサイパン島が陥落し、日本本土がB29の爆撃可能範囲に入ったころだ。
基地は空襲被害を最小限に抑えるため、敵の偵察から存在や全貌を隠す「秘匿性」と、司令部や兵舎、弾薬庫といった重要施設を広範囲に配置する「分散化」が徹底された。米軍は45年3月に基地を撮影し分析しているが、本格的な攻撃は受けなかった。
■基地跡が語るもの
夜間の奇襲攻撃を得意とし、特攻隊を編成しなかった「芙蓉部隊」が45年5月、鹿屋から岩川へ移り、基地の本格使用が始まった。部隊を率いた美濃部正少佐は特攻に異を唱えたとして知られる。ただ、芙蓉部隊も特攻を成功させるための作戦を展開したことを見落としてはならない。
この頃の日本は既に敗戦必至の状況。日本の戦没者310万人のうち、9割以上は44年から終戦までの1年半あまりに命を落とした。そうした中、なぜ秘匿基地を造ってまで戦争を続けたのかを考える場に、この基地跡はなり得る。
■モデルケースに
地中の遺跡はほとんどの場合、発掘調査をしなければ価値判断できないため、開発で失われないよう「周知の埋蔵文化財包蔵地」として保護される。だが、戦跡は大規模なものが多い。住民生活への影響を懸念して多くの自治体で登録が進まず、人知れず破壊されるリスクにさらされている。
戦争の歴史は立場によって多様化する。戦跡を通して何を語るのか意見が分かれ、遺跡の「評価」が固まっていないように見える。これも戦跡の周知化が進みにくい要因だろう。多様な意見があるのは当たり前だが、二度と戦争を起こしてはならないという思いは誰もが共有できるのではないか。一人一人が深く考える場と戦跡を位置づけ、市民と自治体が協力して保存や記録を進めてもらいたい。
岩川基地は滑走路をはじめ、諸施設の痕跡が地中に多く残っている可能性がある。住民の関心の高さや行政との良好な協力関係、急激な開発リスクの低さなど、保存と活用を進める条件も整っており、全国のモデルケースになれるポテンシャルを持つ。ぜひ、戦争を語り継ぐ対話の場として戦跡を守ってほしい。
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講演は、戦後80年に合わせて曽於市教育委員会が開き、約80人が聴講した。