本土決戦の主戦場は志布志湾 日本軍も陣地構築を進める 総延長16キロの地下壕を張り巡らせた

2025/08/26 12:00
シラスの崖に残るコンクリート造りの壕は、旧日本軍の発電所跡と伝わる=21日、志布志市安楽平床
シラスの崖に残るコンクリート造りの壕は、旧日本軍の発電所跡と伝わる=21日、志布志市安楽平床
 1945(昭和20)年6月、沖縄で勝利した米軍は次の狙いを日本本土に定めた。100万人以上の兵を投入し、25万人を超える死傷者を覚悟した歴史上最大の上陸作戦だ。主戦場は志布志湾、決行日は11月1日。日本軍側も早くからこれを予想して44年4月に陸軍第86師団を編成、司令部を志布志市松山に置いて陣地構築を進めていた。45年8月の日本の無条件降伏で地上戦は回避されたが、大隅半島を中心に県内全域で沖縄戦同様の軍民入り交じった戦いが繰り広げられる寸前だった。

 志布志市安楽平床のシラス崖の一角に、コンクリート造りの穴がぽっかり口を開けている。幅4メートル、高さ4.6メートルで約20メートルの奥行きがあり、中ほどに機械を据え付けるコンクリートの基礎のようなものが残る。地元では「発電所跡」と呼ばれる。

 近くの丘の上には「通信壕(ごう)跡」とされる構造物もある。現在は封鎖されているが、コンクリートで覆われた入り口の先の急な階段を下りると、地下に広間があるという。

 いずれも太平洋戦争末期の日本軍施設の遺構だ。米軍の上陸に備え、志布志湾岸一帯では早くから陣地構築が進められた。

 志布志は湾沿いの細長い平地に街が広がり、後背部にシラス台地が迫る。この台地の地下に、陸軍第86師団歩兵187連隊約2000人が壕を張り巡らせた。上陸前に予想される激しい空爆や艦砲射撃を地下で耐え、上陸が決行されれば地上に出て水際で敵を撃退する構想だ。

 敗れたとはいえ、54万人の米兵を劣勢の11万人で迎え撃ち、苦しめた沖縄戦の踏襲を意図したのは間違いない。

 45年の初夏には、地下陣地は総延長16キロの8~9割方完成していたと伝わる。砲台や機関銃座、弾薬庫に加え、炊事場や井戸を備えた巨大地下要塞(ようさい)だ。各地にあったはずの壕の出入り口は現在、自然に埋まったり、安全のためふさがれたりして存在を知る人も少ない。

■松山に師団司令部

 86師団は44年4月4日、福岡県の久留米で編成された。司令本部を松山村(志布志市松山)の国民学校とし、7月には1万3000人余りの将兵が大隅半島に展開した。兵は学校の校舎など、将校は地元の裕福な一般住宅などに寝泊まりした。

 総延長約80キロの志布志湾沿岸は砂浜も広く、大部隊の上陸に都合がいい。宮崎沿岸や薩摩半島西岸の吹上浜も同様の地形的な利点がある。だが、上陸の兵を運び、艦砲射撃で支援する艦隊の展開を考えれば、日本海軍の連合艦隊が泊地としていた志布志湾が最適地だ。志布志から攻め上がって鹿屋などの飛行場を手中に収め、爆撃機や戦闘機の出撃拠点化を狙う。大本営情報部は米軍の意図をそう読んだ。

 45年3月に小笠原諸島の硫黄島を陥落させた米軍は、4月1日に沖縄本島に上陸した。軍部は4月上旬、第57軍を編成し、「南九州方面の作戦準備を速急完整し、来攻する敵を撃滅すべし」と下命した。57軍は司令部を財部町(曽於市財部)に置き、先行して陣地構築を進めていた86師団を含む4個師団などを指揮下に収めた。兵力は総勢約15万人に達していたとみられる。

 宮崎や吹上浜への上陸にも備えつつ、大隅半島を主戦場と見定めた臨戦態勢は最終形態に近かった。

■米軍側の作戦準備

 米軍の本土侵攻に関する日本軍の予測は、ほぼ的中していた。米側の作戦名は「ダウンフォール」。九州上陸を「オリンピック」、関東上陸を「コロネット」のコードネームで呼んだ。

 45年5月末にはオリンピック作戦の決行日を11月1日、コロネットを46年3月1日とする計画文書が作成された。作戦の最高責任者は、45年4月に急死したルーズベルト大統領の後を継いだトルーマン新大統領だ。約4年にわたる日本との戦争をどう終わらせるかは、最大の政権課題だった。

 ただ、トルーマンには作戦の決行にためらいがあった。米軍は沖縄戦で3万9000人以上、投入兵力の39%を超える死傷者を出した。本土侵攻でも同様の比率で死傷者を出せば、米国内世論の反発は必至だ。政権維持が危ぶまれる。

 それでも6月18日の軍高官との戦略会議でゴーサインを出す。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「戦争に勝利するためには血を流さない楽な方法はない」と決断を促した(「日本殲滅」トーマス・アレン、ノーマン・ポーマー)。

 「日本をすぐにたたきのめさない限り、戦争疲れが始まって米国が交渉による和平の模索に向かう」。そんな「危惧」が米国中枢を支配していた。軍人の主戦論者が国の進路決定を大きく左右し、兵士や市民の命は単なる数字としてカウントされる。当時の日米両国に通じる姿だった。

■子どもの前では緊張感見せなかった兵士たち

 古い石垣や武家門が残る志布志市松山町新橋の馬場地区は戦時中、民家の多くに軍関係者が寝泊まりしていた。木藤チエさん(90)は、兵士たちの様子を今もよく覚えている。

 現在の集落はすっかり高齢化が進み、人影もまばらだが「あの頃は同級生が9人もいて、にぎやかだった」と懐かしむ。祖母と暮らしていた木藤さんの家には、「隊長さん」が寝泊まりしていた。身の回りを世話する従卒もいた。

 離れの2階にも、7人の兵士が間借りし、幼い木藤さんに優しかったという。通っていた国民学校(現在の小学校)に弁当を届けてくれたこともあった。ただ、級友たちが持参する昼食は、代用食のサツマイモ。教室で食べるのは気まずかった。

 ある日、隊長に膳を運ぶ兵士が、おどけながら歩いていく。クスクスと笑うと、隊長が「何をしているか」と一喝した。慌てて姿勢を正す兵士の様子がおかしくて大笑いした。今思えば、隊長も一緒になって笑わせてくれたのだろう。

 子どもの前では見せなかったのか、木藤さんの目に映った兵士の姿からは、本土決戦が迫っている緊張や悲壮感は感じられない。時折、米軍機の銃撃はあったが、10歳の少女にとって、戦場は遠い場所の出来事だった。

 結局、本土決戦はなく、むしろ怖い思いをしたのは、終戦後だった。木藤家の近くに、食料などの物資を貯蔵した軍の地下壕があった。兵士たちが去った後、残されていた物資を狙って、住民らが殺到した。殺気立った大人たちの姿は「奪い合うようで怖かった」と振り返る。

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