鹿児島県護国神社で開かれた第3回戦没者遺族の集い=24日、鹿児島市
戦没者の遺族でつくる鹿児島県遺族連合会の会員数が減少している。活動の中心となってきた妻と遺児世代が高齢化し、約70年前と比較して8割超が減った。語り部活動の養成に力を入れたり、遺族ではない人にも入会を呼びかけたりして、活動の継続と戦争の記憶継承という課題に向き合っている。
鹿児島市で24日、「戦没者遺族の集い」があった。太平洋戦争の戦没者(軍人・軍属・準軍属)の遺児を中心に県遺族連合会の約120人が集まった。
連合会は慰霊祭の開催や慰霊塔の維持管理、給付金や遺骨収集事業の情報提供などを担ってきた。瀬戸口吉至副会長(85)は「戦争の悲惨さを直接体験している私たちが、恒久平和の大切さを訴え続けなければならない」とあいさつした。
遺族会の活動は戦地で夫を亡くした妻が担ってきた。戦後80年が経過し、高齢化が進み、戦没者の妻は記録が残る1994年の8442人から95人(2025年4月現在)となった。県全体の会員数(遺児ら親族を含む)は、1957(昭和32)年には約5万3000人いたが約85%減の8123人(25年4月現在)にまで減少した。
遺族の集いは2023年に始まった。以前は妻を中心とした女性の部と遺児の部を別々に開いてきたが、妻の高齢化に伴い、会を継続し、活性化するために統合した。遺児も80歳を超えている。孫世代にも声をかけ、昼食会や研修を通して交流を深めている。14年前に亡くなった母・アツエさんの活動をそばで見てきた築地カオリさん(84)=阿久根市=は「組織をここまで固めてくれた母親たちの思いを次代に受け継いでいきたい」と語った。
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「鹿児島県遺族会二十年史」などによると、「日本遺族会」は1947(昭和22)年に「日本遺族厚生連盟」として発足。敗戦後、連合国の管理下に置かれる中で自治体の慰霊祭や追悼式が禁じられ、恩給が停止されるなど「社会的に冷遇された」ことが設立の背景にある。遺族の福祉の増進を目指して、戦没者遺族の援護強化を陳情、要請。1952年には「戦傷病者、戦没者遺族等援護法」が制定され、遺族年金が支給されることになった。
県遺族連合会は51年12月に発足。全国組織の日本遺族会設立から4年たっていた。二十年史には「しんがりの結成県」との記述が残る。理由について「軍人は割合い金に淡泊でそれが一面薩摩魂とされ、武士は食わねど高楊枝的な旧武士道精神が残っていた」「負けたものとして素直に、致し方ないという諦め、忍耐があった」などと説明する。
県連合会が県内市町村に結成してきた支部は現在、会員数の減少や高齢化により、解散を余儀なくされている。この10年で志布志や喜界、与論、徳之島、開聞、頴娃など13カ所が解散し、66遺族会となった。
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「遺族会をどうすれば継続していけるのか」。昨年5月、南九州市の知覧町遺族会長を引き継いだ川床剛士さん(85)は会員数の減少に頭を悩ませていた。52年の発足当時千人を超えていた会員数は約100人に減っていた。川床さんの出した答えは遺族ではない人々の力を借りることだった。
戦没者の親族以外も入会できるよう規定を変更。今年7月には町内約4400世帯に入会を勧める文書を配布した。知覧出身の南九州市議6人を含め34~75歳の計10人が加入。川床さんは「若いセンスを持った人にバトンを渡し、会の活性化を図りたい」と語った。
県連合会は2015年、戦没者の孫やひ孫世代でつくる青年部を発足。当初の約120人から約330人にまで増えた。孫世代は仕事を抱えながら参加する。永山勇人青年部長(62)は「地区内に点在する慰霊碑を統合して清掃や慰霊の負担を減らすなど無理なく活動を続けられる方法を考えなければ」と力を込めた。
■「まず家族へ体験伝えたい」
県遺族連合会の会員数が減っていることや語り部活動について、浜崎和則副会長(84)に聞いた。
-会員数が減っている。
「もともと戦没者の妻が中心となって活動を続けてきた。戦後80年が経過し、会員数が減るのは自然なことだ。孫やひ孫世代は育児や仕事を抱えている人も多く無理は言えない。年1回でいいので慰霊式に参加してほしい」
「私も50年ほど前、母から遺族会を手伝ってほしいと頼まれた。当時は仕事が忙しく面倒だと思ったが、今の私がいるのも戦死した父や、母がいるからだと考え、会の活動に携わってきた。海外から返還された遺品の持ち主を探す作業にも力を入れてきた」
-近年は語り部の養成にも力を入れる。
「これまで足りなかった部分だった。私も鹿児島市の田上で空襲に遭った。母と妹と線路沿いの土手にうずくまり、何とか助かった。亡くなっても身元が分かるように、父が氏名と住所を書いた木札を服のボタンにくくりつけていた」
-戦争の体験を話してこなかった遺児も多い。
「遺児の世代になると、幼かったため記憶は曖昧で戦争を語ることはできないと思い込んでいた側面がある。私も母が亡くなるまで語れなかったことがある。父の実家から米を譲り受け、幼かった私が鹿児島市の闇市で売る役割だった。もし見つかっても子どもは大目に見てもらえると考えたのだろう。母は電柱や建物の陰から見守っていた。今年は県外に暮らす息子や娘と集まる機会がある。まずは子どもたちへ記憶を伝えたい」
■語り部養成へ座談会
遺族会は戦争の記憶を後世に伝える語り部の養成に力を入れている。これまでも遺族が個人的に学校へ出向き、戦中や戦後の体験を講話してきた。県遺族連合会はさらに裾野を広げようと、遺族同士が車座で当時の体験を共有する「対話型」の取り組みを始めた。
鹿児島市遺族会の「戦争を語り継ぐ遺児の会」は8月、初めて会員同士の座談会を開催。小野田喜美子さん(85)は、近所の女性たちが山から竹を切り出してやりを作り、土手や壁を突く訓練をしていた記憶を話した。「竹やりで戦えるのだろうかと幼心に疑問に思った」。式正子さん(77)は「同じ話は一つもなく勉強になった」と振り返った。
将来は学校に出向き、子どもたちも交えた座談会も視野に入れる。県連合会の朝広三雄事務局長(80)は「遺児だけでなく孫世代も含めて語り部を育て、戦争は絶対に繰り返してはいけないということを伝えていきたい」と話した。