「小倉駅営業指導係」の辞令。待っていたのはキオスクの店員…元SL整備士が直面した国鉄民営化という名の現実

2025/09/15 21:00
かつて整備した「キハ52」を眺める伊地知孝さん=7月、志布志市の志布志鉄道記念公園
かつて整備した「キハ52」を眺める伊地知孝さん=7月、志布志市の志布志鉄道記念公園
 鹿児島をはじめ全国でローカル線の存続が危ぶまれている。JR各社は区間別の収支や利用状況を公表し、将来の地域交通の在り方を巡り、地元と対話したい姿勢を強調する。近年、自然災害を機に存廃論議に発展するケースも珍しくない。国鉄から引き継がれてきたレールはどうなるのか。鉄路の現状や歩みを振り返る。(連載かごしま地域交通 第4部「きしむレール」④より)

 「煙を上げて走り出した瞬間の感動は忘れられない」。JR志布志駅近く、鉄道記念公園に保存されている蒸気機関車(SL)C58。国鉄志布志機関区として整備場や転車台があった場所で伊地知孝さん(81)は語る。長年SLの整備を担当してきた。「安全に走らせるため必死だった」。作業中、先輩からスパナが飛んでくることもあった。

 志布志駅は1925(大正14)年開業。国鉄志布志線、大隅線、日南線の結節点として大隅半島の発展を支えた。

 「鉄道ほど正確で安全な乗り物はない。赤字だからとなぜ切ってしまったのか」。つぶやく伊地知さんが見つめる先にもう線路はない。

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 鹿児島の鉄道の歴史は1901(明治34)年、官鉄が鹿児島-国分(現隼人)に敷設したのが始まり。道路未整備の中、旅客や貨物を輸送するインフラとして定着し、鹿児島線や日豊線ができた。戦後、復員者受け入れで組織が巨大化する49年、公共企業体の国鉄が発足。復興の象徴である鉄道建設は国策として進められた。県内では日南、指宿枕崎線などが全線開通した。

 東京オリンピック開催に沸く64年、伊地知さんは国鉄に入った。東海道新幹線が開通した年でもあり、鉄道は希望の光にあふれていた。

 SLの車輪にブレーキをかける役割の「制輪子(せいりんし)」の整備が鉄道人生の原点だった。「数ミリの狂いが事故を生む」と神経を研ぎ澄まして15キロの鉄の塊と向き合った。自動化や電化が進む前の時代だけに、現在とは比較にならない数の人間が携わっていたという。

 ただ既にそのころ、SLは時代遅れになりつつあった。石炭を動力とする効率の悪さや排煙による健康被害が挙げられた。国鉄は60年代、軽油で走るディーゼル車や架線から電力を供給する電車へ転換する「無煙化」へかじを切った。76年、SLは全廃された。

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 輸送効率が飛躍的に向上する一方、国鉄はボイラーへのまき入れなどを担う機関助士職を廃止。かつての鉄道マンは「余剰人員」と呼ばれるようになり、86年度までにピーク時から4割減の27万7000人まで合理化された。

 同時期、車社会が到来し鹿児島でも国鉄離れが進んだ。国が発表した第2次廃止対象路線に県内は大隅、志布志、宮之城、山野の4路線が該当。関係者が惜しむ中、順次廃止され、87年、国鉄は分割民営化でJRへと名称を変えた。

 国鉄からJRに採用されたのは20万1000人。JR九州では1万5000人の社員のうち3000人が“余剰”だった。伊地知さんは「小倉駅営業指導係」の辞令を受けた。待っていたのは売店キオスクの店員。多くの同僚が鉄道以外の仕事に割り振られたという。

 廃止対象外だった日南線は他の路線と接続しない「盲腸線」となった。現在JR九州と沿線自治体は油津-志布志の在り方を巡り協議中だ。

 「今のJRは利益重視で赤字路線を切ってしまう。これで鉄道会社と呼べるのか」と伊地知さん。「でも合理化しないと組織が存続できない。民間の会社になるとは、そういうことだ」

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