終戦直後。進駐軍向けに政府が指示した〝性的慰安施設〟…モデルは戦前の鹿屋にあった「特殊飲食店」――市民保護の名分下、多くの女性が犠牲になった

2025/09/14 11:13
特殊慰安施設協会は、各地の新聞広告でも女性の募集を呼びかけた(1945年10月25日付鹿児島日報=現・南日本新聞)
特殊慰安施設協会は、各地の新聞広告でも女性の募集を呼びかけた(1945年10月25日付鹿児島日報=現・南日本新聞)
 太平洋戦争が終わってすぐ、日本政府は進駐軍のための性的慰安施設の準備を指示し、全国で開設が進んだ。モデルとされたのが、戦前に鹿屋海軍航空隊基地(鹿児島県鹿屋市)近くに設置された特殊飲食店(特飲)だったことから、「鹿屋方式」と呼ばれる。米軍が上陸した鹿屋市でも市民保護の名分の下、特飲が進駐軍向けに姿を変えた。識者は「警察にも行政にも黙認された売春を強いられ、多くの女性が犠牲になった」と指摘する。

 鹿屋市役所から歩いて数分、今はマンションなどが並ぶ通りに、かつて進駐軍向けの慰安施設があった。当時近くに住んでいた男性(91)は「日本人は入れず、入り口付近にはMP(米軍憲兵)がいた」と記憶する。別の男性(87)は「戦前から子どもは近づけない場所だった」と述懐した。

 当時、一帯には旅館風の2階建て家屋が十数軒立ち並び、近くに性病を検査する診療所もあったという。やがて一般客にも開かれるようになり、1958(昭和33)年の売春防止法施行までにぎわった。

◆玉音放送3日後

 玉音放送からわずか3日後の45年8月18日、内務省は進駐軍向け慰安施設を設置するよう、各地方長官に指示した。政府を後ろ盾に特殊慰安施設協会(RAA)が発足。新聞広告などで女性を募って、各地に慰安施設が開設された。指揮を執ったのが、警視総監の坂信弥(1898~1991年)だ。

 坂は鹿児島県警察部長時代(36、37年)、鹿屋海軍航空隊の求めに応じ、兵士による地元女性への暴行を防ぐため、基地近くに特飲をつくった。遊郭の新設が難しい時代で、ダンスホールでダンサー女性と兵士が出会い、事後は「自由恋愛」という形式を考案。後年、新聞連載の伝記「私の履歴書 経済人6」(日本経済新聞社)に「警察部長が赤線をつくるなんて今ではとても考えられない」とつづった。

 45年8月17日から2度目となる警視総監を務めた際、進駐軍対策を検討。全国での慰安施設の開設準備を進めた。「進駐軍から日本の婦人を守る“防波堤”をつくった」と、正当性を強調している。

◆行政、警察も協力

 鹿屋での開設には、行政も関与した。永田良吉・元鹿屋市長は「市内の特飲をふくむ飲食店業者を招んで店を再開、米軍にもこれを開放するように呼びかけた」(55年8月16日付南日本新聞)と明かしている。

 通訳を担当した外交官の手記(潮出版社「潮」85年9月号)によると、米軍が進駐した1週間後くらいには店の営業が再開され、20人あまりの女性が避難先から復帰。「公娼全員をペニシリン注射で無害化すると、遊郭を米軍専用」としたという。

 県警察史には「警察を悩ませたのは、進駐軍側からの慰安婦の要求であった。要求をうけた警察署長や幹部は、管内の貸席業者や接客婦等に説得や勧誘をしなければならなかった」と記される。

 鹿児島大「鹿児島の近現代」教育研究センターの中嶋晋平特任助教(44)=日本近現代史=は、著書「戦争体験から紡ぎ出す鹿屋と昭和の戦争」で、慰安施設設置の経緯を検証した。

 占領期、全国で売春を強いられた多くの女性が精神をむしばまれ、性病で苦しみ命を落としたことに触れ「鹿屋では“平和的進駐”と呼ばれるが、その裏で犠牲となった人がいたことを記憶にとどめておくべきだ」と述べた。

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >