「今から敵艦に突入す」。特攻隊員が最後に伝えてきた報告を通信員として参謀室に伝えた。同世代の隊員が次々と命を散らしていくのは、ただつらかった。

2025/10/27 10:00
学徒通信隊の名札を手にする町田ヤスさん=鹿屋市串良町岡崎
学徒通信隊の名札を手にする町田ヤスさん=鹿屋市串良町岡崎
■町田ヤスさん(84)鹿屋市串良町岡崎

「学徒通信隊 二見(旧姓)」。今でも大切に保管している古ぼけた名札に、きれいな墨字で書かれた自分の名前を見るたび、戦時中の激動の青春時代を思い出す。

 大崎町假宿の出身。1945(昭和20)年3月に志布志高女を卒業し、同4月、旧海軍第五航空艦隊司令部(鹿屋市)所属の学徒通信隊に友人らと入隊した。「子どもの中の一人ぐらいは軍に協力してほしい」との父親たっての願いだった。

 当時は典型的な軍国少女。「お国のためなら死もいとわない」という思いが強く、志布志高女で開かれた壮行会では「決死の覚悟で行ってきます」とあいさつした。

 通信隊の業務は、現在も跡が残っている同市新生町の地下壕(ごう)で実施していた。コンクリート張りの壕の中は総延長725メートルで、24時間3交代勤務。各通信員に割り当てられた通信機器を使い、他基地から届く作戦情報や、鹿屋基地を飛び立った特攻隊員からの報告などを参謀室に伝えていた。

 「今から敵艦に突入す」。特攻隊員が最後に伝えてきた報告は、現在でも鮮明に覚えている。他の通信員も似たような報告は何度も受けていて、同世代の隊員らが次々と命を散らしていくのを、上官に伝えるのはただただつらかった。

 ある日の夕暮れ。出撃前の特攻隊員が上官から別れの杯を受ける姿を目撃した。当時は男性と話をすることすら禁止され、見ず知らずの隊員だった。しかし、今でも当時の光景ははっきりと目に焼き付いており、これから死に行く人を「無事に帰ってきて」という複雑な思いで見送った。

 通信隊時代は、出身校ごとに壕近くの寺や空き家で集団生活した。三角おにぎりの握り方もその時に学んだ。友人らと仲良く握っていたが、実は特攻隊員に食べてもらうために教えられていたことを戦後になって知った。当時の数少ない温かな思い出は、戦争の悲しい代償だった。

 同8月15日夜、広場に突然集められ、上官から終戦が告げられた。通信隊はその場で解散。実家まで数十キロの道のりを夜通し夢中で歩き、明け方ようやく帰り着いた。戦時中は一度も直接的被害は受けなかったが、玄関先で出迎えてくれた母親の顔を見てようやく安堵(あんど)し、うれしさがこみ上げた。

 「終戦日 今年も無心の蝉(せみ)しぐれ 愛国に燃えし 若き日を想う」。20年ほど前に初めて詠んだ短歌だが、終戦から67年たった今年の8月15日も終戦の日と同様、セミは変わりなく無心に鳴き続けていた。

 変わったのは自分自身の心。戦争に勝つために燃えていた心は、今は「戦争は二度としてはいけない」という強い思いに変わった。特攻隊員らの尊い犠牲の上に生かされた命を大切にしながら、平和の時代をかみしめて生きている。

(2012年8月22日付紙面掲載)

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