垂水市で発見された焼夷弾を手にする川畑弘見さん=同市文化会館
■川畑弘見さん(95)鹿児島県垂水市下宮町=2回続きの㊦
空襲で焼け野原となった鹿児島市から古里の垂水へ出発したのは1945(昭和20)年8月4日、くしくも垂水空襲の前日だった。鹿児島駅は空襲で使えず、竜ケ水駅まで歩いた。姉に見送られて列車に乗り、昼ごろ国分駅へ着いた。バスは止まっていたが、垂水の航空隊へ向かう海軍のトラックがちょうど駅に入ってきて荷台に乗せてくれた。午後3時ごろ、両親と3人の妹、弟、お手伝いさんがいる実家にたどり着いた。
翌日はよく晴れた暑い日だった。田んぼでの草刈りをいったん切り上げ、家で昼食のそうめんをすすっていた時、空襲の警戒警報が鳴り始めた。まだ空襲にはならないだろうと思っていたらサイレンの音が空襲警報に変わった。すぐにドカーンと爆音が響いた。
編隊を組んだ米機が焼夷弾をまいて牛根方面へ飛んだ後、戻ってきて機銃掃射した。海岸へ逃げた人は隠れる場所がなく多くが犠牲になったと聞いた。その後、山側へ飛んで来て、防空壕へ逃げる人を銃撃した。
自分たちは庭に掘った防空壕に逃げ込んだ。近くにも焼夷弾が落ち「ここは危ない」と、母と弟、妹たちを現在の田神地区の方へ避難させた。父と燃えさかる倉庫を消火しようとしたが、手に負えなかった。
自分たちも逃げようと走り始めると、道に1、2メートル間隔で焼夷弾が刺さっていた。あちこちで火の手が上がっていた。道すがら現在の中央町にある光源寺の床下に逃げ込んで機銃掃射をしのいだ。銃撃の合間を縫って、大きな横穴式の防空壕が多くあった城山方面へ向かった。しかし、攻撃が激しくたどり着けない。近くに大きな椿とやぶ茶が生えている場所があり、その木の陰に身を隠した。
米機は低空を飛び回り、B29より1回り小さいB25が近くを通ったが、気付かれなかった。機銃を撃つ米兵の姿を木の陰から見ていた。「チキショウ」と腹が立って仕方がなかった。
攻撃がやんだのは薄暗くなってきたころ。家族は全員無事で再会できたが、家は全焼した。前日に持ち帰った教科書や学生服も全て燃えた。しばらくミカン畑にあった小屋で暮らした。
終戦後、垂水海軍航空隊に関連する建物の材木をもらい、家があった場所に仮小屋を建てた。周囲にもそういう小屋がたくさんあった。学校の再開は46年。友達の教科書を見せてもらい授業を受けた。民主化が進み、変わっていく社会に順応しなくては、という気持ちが強かった。恐らく先生方も難儀しただろう。「自由」をはき違え、傍若無人に振る舞う人も見かけた。
自分たちは青春時代に戦争を経験した。空襲で焼けた町を見た時、「なぜこんなことをするのか」と思った。戦争は絶対にしてはいけない。人間をどんなに惨めな姿にするか。若い人は遠慮せず、体験者に自分から話を聞いてほしい。
(2025年10月30日付紙面掲載)