中学3年時の担任から「武士は食わねど高楊枝」という言葉を教えられた。昔の武士たるものは、食に困っても楊枝をくわえて既に食ったような態度をとったものだと説明され、それ以来、そううそぶく武士の姿勢を深く考えるようになった。
また、この言葉に苦悩する時間を味わった。食事をしていないのに、済ましたような態度をとるという行為に、何の意味があろうか。その必要性はどこにあるのだろうかと折に触れて考え続けることとなった。当初は武士というものは腹が減ったようなさもしい、浅ましい姿を他人に見せるものではないというような姿勢を表した表現と普通に理解していた。でも、高校時には空腹なのに、他人に対してそんな見栄を張るという行為に、虚栄心の馬鹿馬鹿しさを思うようになった。
さらに、大学時代には、むしろ正直に振る舞う姿勢に高貴な人間の有様すら考えるようになっていた。そして実社会に入って経営に携わり、「背に腹は代えられぬ」という言葉をよく耳にするようになり、厳しい実社会における「武士は食わねど高楊枝」的な姿勢はまったく共存できない現実社会を知ることになった。
それでも、「武士は食わねど高楊枝」の言葉にある生きる姿勢には心惹かれた。何故かくも惹かれるのかと考えていると、最近ではこの言葉に武士たるがゆえの「誇り」を感じるようになり、自分なりに謎が解けた。つまり、現在の私はこの言葉に「武士の誇り」を見たのであり、高校時代の私には「武士の虚栄心」しか見えなかったのである。
常々社員に話すことがある。自尊心とは相対性であり、誇りは絶対性であるから、「誇りを胸に、プライドは捨てろ」と。すると、「プライドと誇りは同じことじゃないですか」と社員から正される。だから、他者がいるから自尊心たるプライドが生まれ、周囲に関係なく存在しているものが日本語で言う「誇り」なのだよと説明する。
そもそも、英語の"pride"を「自尊心、誇り」と並立して訳している辞書が多いが、「自尊心」と「誇り」は、全く異なる次元と意味を持つ言葉であり、同等同質に訳すことに無理がある。他者と関わりのない環境では「自尊心」なる言葉は無意味となり、「誇り」だけが光を放つこととなる。