第10部

プロローグ
女子留学生
あんな小さな娘を外国に送り学問させるなんて-。明治4(1871)年11月12日の横浜港、岩倉使節団を見送りに来た人々は場違いなほど幼い少女たちに目を見張った。使節団に伴われた日本初の女子留学生は、上田悌子(15)、吉益亮子(15)、山川捨松(12)、永井繁子(9)、最年少の津田梅子(8)の5人(いずれも数え年)。現代でいえば小中学生に国家の期待が掛けられていた。
派遣元は北海道開拓使だった。次官の黒田清隆は米国視察(明治3年)で、自分の考えを語る快活な女性たちに感銘を受け、帰国後に女学校設立と女子留学生派遣を建議した。子弟の教育には教養ある母親が不可欠なので「幼稚の女子」を米国の家庭に育ててもらい、現地の文化を体得させたいと訴えた。黒田が考える女子教育は、国を支える優れた男子を産み育てる「賢母」養成に他ならなかった。
明治天皇は海外の女子教育や育児方法を学ぶため「妻や姉妹を同行してよい」と勅諭を出したが、使節団の誰も応じなかった。女子留学生はなおさらで、渡航費と10年間の学費に生活費、さらに年800ドルの大金が支給される好条件でも応募は皆無。婚期を逃すと敬遠された。
再募集で集まった5人は、戊辰戦争で“朝敵”とされた共通点がある。4人は幕臣の娘、捨松は会津藩家老の妹で「捨てたつもりで待つ(松)」という母の覚悟と無事の願いを込め、出発前に改名された。薩長の後塵(こうじん)を拝した家族らは、娘の将来が開けると願って送り出したのだった。
派遣元は北海道開拓使だった。次官の黒田清隆は米国視察(明治3年)で、自分の考えを語る快活な女性たちに感銘を受け、帰国後に女学校設立と女子留学生派遣を建議した。子弟の教育には教養ある母親が不可欠なので「幼稚の女子」を米国の家庭に育ててもらい、現地の文化を体得させたいと訴えた。黒田が考える女子教育は、国を支える優れた男子を産み育てる「賢母」養成に他ならなかった。
明治天皇は海外の女子教育や育児方法を学ぶため「妻や姉妹を同行してよい」と勅諭を出したが、使節団の誰も応じなかった。女子留学生はなおさらで、渡航費と10年間の学費に生活費、さらに年800ドルの大金が支給される好条件でも応募は皆無。婚期を逃すと敬遠された。
再募集で集まった5人は、戊辰戦争で“朝敵”とされた共通点がある。4人は幕臣の娘、捨松は会津藩家老の妹で「捨てたつもりで待つ(松)」という母の覚悟と無事の願いを込め、出発前に改名された。薩長の後塵(こうじん)を拝した家族らは、娘の将来が開けると願って送り出したのだった。
□ ■ □
翌5年2月、5人はワシントンに到着したが、受け入れ先は決まっていなかった。森有礼の秘書だったランマン宅などに仮住まいし、森や家庭教師に英語を習った。ところが、年長の亮子と悌子は1年足らずで病気になり帰国。残った3人が愛情あふれる家庭に迎えられたのは、その年の10月末だった。
捨松は、コネチカット州ニューヘイブンのベーコン牧師夫妻に育てられ、末娘アリスとは生涯続く絆を結んだ。のびのびと少女時代を満喫する一方、上流階級の振る舞いも学んだ。
バッサー大学在学中の明治14(1881)年、留学期間が満了して帰国命令が届いた。1年延長して優秀な成績で卒業を果たし、看護学校にも通った。政府の期待以上の知識と教養を身につけた捨松は明治15(1882)年、11年ぶりに故国へ向かい、船上で梅子と「新しい女子の学校をつくろう」と誓い合った。
捨松は、コネチカット州ニューヘイブンのベーコン牧師夫妻に育てられ、末娘アリスとは生涯続く絆を結んだ。のびのびと少女時代を満喫する一方、上流階級の振る舞いも学んだ。
バッサー大学在学中の明治14(1881)年、留学期間が満了して帰国命令が届いた。1年延長して優秀な成績で卒業を果たし、看護学校にも通った。政府の期待以上の知識と教養を身につけた捨松は明治15(1882)年、11年ぶりに故国へ向かい、船上で梅子と「新しい女子の学校をつくろう」と誓い合った。
□ ■ □
「追々女学御取建(おとりたて)の儀に候(そうら)へば、成業帰朝の上は婦女の模範とも相成(あいなり)候様(そうろうよう)」。留学へ出発する前、皇后から下された沙汰書にはそう書かれていたが、帰国した捨松と梅子は模範になるどころか働き口もなかった。送り出した開拓使は解散しており、教育令(明治11年)で儒教の影響が強まり、女学校設立のめども立たない状況だった。留学成果を生かせない悔しさを、捨松はアリスへの手紙に「国の損失だ」と吐き出した。
適齢期を過ぎた2人に親族から次々と縁談が持ち込まれたが、何の仕事もせぬまま家庭に入る気になれなかった。一方、ピアノを学んで先に帰国した繁子は文部省音楽取調掛(とりしらべがかり)に勤めながら、海軍武官・瓜生(うりゅう)外吉と恋愛結婚、仕事と家庭を両立させた。
「私が就職できる仕事はまったくありません」「今一番やらねばならないのは、社会の現状を変えること。日本では結婚した女性だけができること」「夢をあきらめても何か別の方法で日本の役に立てないかと考えるようになりました」(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」)
捨松の心境に変化を与えたのは、陸軍卿大山巌との縁談だった。会津の旧敵・薩摩出身の大山は、幼かった捨松がこもっていた城を砲撃した張本人でもあった。捨松は大山にデートを提案して人となりを見極めながら、アリスに葛藤を書き送った。
明治16年12月、鹿鳴館での披露宴では、米国で身につけた社交術が外国人からも称賛された。海外の上流階級の文化を紹介し、社交界や慈善事業に活躍した。日本初の慈善バザーは翌17年、捨松が看護婦養成の資金づくりのため、皇族や華族の妻らに呼び掛けたのだった。宮内省洋化顧問や華族女学校設立準備委員などの公職も務めた。
津田塾大学の高橋裕子学長は「大山との結婚は、自分が受けた教育成果を社会に還元する現実的選択でもあったが、大学の学位を得た唯一の日本女性という、捨松自身のキャリアも重視された」とみる。
「賊軍」とされた会津の少女は、留学や結婚を経て立身し、社会貢献できるまでになった。だが、捨松らが抱いた女子教育の理想と、明治の現実は遠く懸け離れていた。
適齢期を過ぎた2人に親族から次々と縁談が持ち込まれたが、何の仕事もせぬまま家庭に入る気になれなかった。一方、ピアノを学んで先に帰国した繁子は文部省音楽取調掛(とりしらべがかり)に勤めながら、海軍武官・瓜生(うりゅう)外吉と恋愛結婚、仕事と家庭を両立させた。
「私が就職できる仕事はまったくありません」「今一番やらねばならないのは、社会の現状を変えること。日本では結婚した女性だけができること」「夢をあきらめても何か別の方法で日本の役に立てないかと考えるようになりました」(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」)
捨松の心境に変化を与えたのは、陸軍卿大山巌との縁談だった。会津の旧敵・薩摩出身の大山は、幼かった捨松がこもっていた城を砲撃した張本人でもあった。捨松は大山にデートを提案して人となりを見極めながら、アリスに葛藤を書き送った。
明治16年12月、鹿鳴館での披露宴では、米国で身につけた社交術が外国人からも称賛された。海外の上流階級の文化を紹介し、社交界や慈善事業に活躍した。日本初の慈善バザーは翌17年、捨松が看護婦養成の資金づくりのため、皇族や華族の妻らに呼び掛けたのだった。宮内省洋化顧問や華族女学校設立準備委員などの公職も務めた。
津田塾大学の高橋裕子学長は「大山との結婚は、自分が受けた教育成果を社会に還元する現実的選択でもあったが、大学の学位を得た唯一の日本女性という、捨松自身のキャリアも重視された」とみる。
「賊軍」とされた会津の少女は、留学や結婚を経て立身し、社会貢献できるまでになった。だが、捨松らが抱いた女子教育の理想と、明治の現実は遠く懸け離れていた。