紫電改は撃墜され、減っていった。ベニヤ板で覆った機銃陣地。痛む肩を冷やしながら、穴の中から敵機に必死に撃ち返した〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/08/04 13:05)
「多くの命を奪う戦争はやってはならない」と話す小山田敏則さん=日置市吹上町永吉
「多くの命を奪う戦争はやってはならない」と話す小山田敏則さん=日置市吹上町永吉
 ■小山田敏則さん(93)日置市吹上町永吉

 永吉尋常高等小学校を卒業して2年後の1943(昭和18)年、16歳で海軍の飛行予科練習生(予科練)として山口県の岩国航空隊に入隊した。愛媛県にあった松山基地の源田実大佐率いる第343海軍航空隊(通称剣部隊)に配属となったのは45年2月。最新鋭戦闘機の紫電改が配備されていた。

 搭乗員の身分だったが、地上勤務で任務は戦闘機の機銃に弾丸を込める作業だった。紫電改には20ミリ機銃が4丁あり、狙い通り飛ぶよう調整しながら、1丁に120発ずつ装てんした。

 3月19日午前3時、起床するやいなや、敵機が四国沖を北進中との連絡が入った。米軍機は、紀伊半島方面から瀬戸内海に入り、広島・呉の軍港を攻撃して豊後水道へ向かった。そこを剣部隊が迎撃し、松山基地の上空で空中戦が展開された。

 機体に日光が反射してきらきら光っていた。戦闘を見るのは初めてだった。恐ろしさは感じなかった。何か珍しいものを見ているという不思議な感覚だった。

 米軍のグラマン機など58機を撃墜し、味方は38機が帰ってこなかった。機体の整備や弾丸補給に不眠不休で当たった。

 4月に部隊は長崎の大村基地に移り、毎日のように米軍B29爆撃機の攻撃を受けた。紫電改は撃墜されて減っていく。戦力を補うために、機銃陣地が造られた。

 滑走路沿いに直径2.5メートル、深さ1.3メートルほどの穴を掘り、空に向けた機銃の周りをベニヤ板で覆った。100メートルおきに30カ所ほどあっただろうか。1カ所に8人ずつ割り当てられ、1日交代で4人が入った。

 陣地内の足場は悪く、機銃を地面に固定するのに難儀した。撃ち続けると振動で照準がずれていく。そんな状態で空中の敵機に命中させるのは至難の業だった。逆に、動かない陣地は空から格好の標的になった。ベニヤに弾が当たる音がした。発砲の衝撃で痛む肩をぬれタオルで冷やしながら、必死に撃ち返した。

 1日交代だったのが、いつしか週に5日は陣地に入るようになっていた。7月上旬、たまたま非番で装備を点検していると、自分の陣地がグラマンの攻撃を受けているのが見えた。30キロほどの爆弾を落としたらしく、陣地にいた4人のうち3人は死亡、残る1人も重傷を負った。

 機銃を構えていた1歳上の兵士は、顔が半分やられ、脳が見えていた。収容して焼き場に運んだ。肉片も拾い集めて埋めた。遺体を片付け、陣地を作り直した。必死だった。

 その後は、恐怖心よりも「やらなければやられる」という思いで陣地に入った。いざというときに逃げ込めるよう防空壕(ごう)を準備した。

 8月9日、艦砲射撃のようなごう音に驚いた。長崎に投下された原爆だった。15日、基地本部で玉音放送を聞いたが、戦争が本当に終わったのか半信半疑だった。一部の隊員が「俺たちだけでも立ち向かおう」と、複葉機の部品でやりを作り、訓練を始めた。従わないわけにいかなかった。

 22日、上官から解散命令が言い渡されると、みんなあっさりいなくなった。私も乾パン2日分をもらって吹上に帰った。

 長崎市の軍需工場で働いていた2歳下の弟は、原爆の3日後亡くなった。まだ16歳だった。戦争というものは多くの命を奪う。二度とやってはいけない。