特攻隊員には選ばれなかった。グライダーの滑空訓練に明け暮れる日々。そして終戦。隊長から聞いた。幻のロケット戦闘機・秋水の「特攻」任務だったのだと〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/08/06 15:30)
奈良伍郎さんが、三重海軍航空隊の野辺山派遣隊(長野県)で明け暮れたグライダーによる滑空訓練を描いたイラスト
奈良伍郎さんが、三重海軍航空隊の野辺山派遣隊(長野県)で明け暮れたグライダーによる滑空訓練を描いたイラスト
終戦直後、訓練仲間の寄せ書きを集めた筆記帳を大切に保管している奈良伍郎さん
終戦直後、訓練仲間の寄せ書きを集めた筆記帳を大切に保管している奈良伍郎さん
■奈良 伍郎さん(91)鹿児島市西陵8丁目 

 幼い頃に両親を亡くし、伯母宅で世話になっていた15歳の時、海軍の飛行予科練習生(予科練)の募集があった。2次試験を受けに長崎県佐世保に行き、器械体操や平衡感覚などをチェックされて合格。「飛行兵になって大空を駆け巡ることができる」とうれしかったことを覚えている。

 1943(昭和18)年5月、乙種飛行予科練20期生として鹿児島海軍航空隊に入隊。畑が広がる紫原まで走り込んで射撃練習をしたほか、相撲や陸上の大会もあった。同じ分隊の誰か一人でも教官の意に沿わない行いをすれば全員が廊下に整列させられ、尻をバットでたたかれた。

 座学で英語も学習した。南方に出撃する実戦部隊の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を見送ったこともある。手を振って活躍を祈りながら、「いつか自分たちも」と思っていた。

 入隊から半年ほどたち、操縦か偵察の担当を決める飛行訓練があった。通称「赤とんぼ」と呼ばれる複葉機の後ろに教官を乗せ、離陸後まずは桜島に向かい、鹿児島湾を南下。開聞岳を経て戻るルートを2回飛び、希望通り操縦に選ばれた。「憧れのゼロ戦の搭乗員になれる。国のために役立てる」と大喜びした。

 44年になると特攻隊員の募集があり、ほぼ全員が希望した。私も小指の血判を押して賛同したが、選ばれなかった。理由は分からない。熊本県牛深の海岸で特攻艇を収容するための穴掘りに従事した。鹿児島に戻ると米軍の空襲で航空隊の施設が破壊されていて、しばらく穴蔵生活だった。

 その後、三重海軍航空隊の野辺山派遣隊(長野県)に赴任。小高い丘で、グライダーによる滑空訓練に明け暮れた。

 終戦は長野で迎えた。部隊解散にあたって隊長から、迎撃できなかった場合は、体当たり攻撃するか滑空していくかの任務だったと聞いた。米国のB29爆撃機を迎え撃つために開発された幻のロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」の訓練だった。

 45年8月末、鹿児島に帰る前に隊員同士で寄せ書きし合った筆記帳は今も大事に保管している。「特攻精神」とか「神国再興を」「日本ハ必ズ勝」などと書かれている。敗戦を信じられず、心は燃えていた。
 戦地で散った兵隊だけでなく、空襲や原爆で犠牲となった市民を思うと心が揺さぶられ、涙が出る。4人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄もフィリピン沖で戦死した。当時の偉い人たちは、もう少し賢明な判断をしてほしかった。負け戦争に突っ込んでいったことが残念でならない。

〈秋水〉第2次戦争末期、日本各地を高空から空襲していた米国のB29爆撃機の迎撃を目的に開発されたロケット戦闘機。3分余りで高度1万メートルに到達し、10分程度で燃料が切れるためグライダーのように滑空する計画だった。1945年7月のテスト飛行で失敗し、そのまま終戦を迎えて二度と飛ぶことはなかった。

(2019年11月3日付に掲載)