八重島の特飲街でAサインバーを営んだ両親。米兵が訪れる、子どもが入ってはいけない部屋があった。稼ぎを古里に仕送りするねぇねぇたち。「女性の生き血を吸うろくでもない男」。長く父を憎んだ。〈戦後75年 沖縄の奄美人〉

(2020/08/13 20:00)
かつて自宅があった八重島で当時を振り返る池田一仁さん=2月7日、沖縄市
かつて自宅があった八重島で当時を振り返る池田一仁さん=2月7日、沖縄市
 太平洋戦争が終わり、奄美群島は沖縄と共に米軍統治下に置かれた。深刻な食糧難に追い込まれた奄美の島々から、職を求めて多くの島民が沖縄へ渡り、米軍基地の建設に沸く街で働いた。奄美の日本復帰、ベトナム戦争、基地拡大-。終戦から75年の間、時代のうねりの中に生きた奄美人(あまみんちゅ)や2世を通じて平和を考える。

 1959(昭和34)年4月10日、米軍嘉手納基地に隣接する歓楽街・八重島(現沖縄市)で、徳之島出身の第46代横綱朝潮を囲んだ白黒写真がある。大相撲沖縄巡業の際の1枚。朝潮の隣で父親のひざに乗っている池田一仁さん(68)=兵庫県三木市=は「父が朝潮を応援していた縁で、奄美出身者が集まって歓迎した」と懐かしむ。撮影場所は、両親が米軍の許可を得て営んだ米兵向けのAサインバー内という。

 瀬戸内町古仁屋出身の父と奄美市笠利町出身の母は、戦後間もない48年ごろ沖縄に移った。その後、池田さんは生まれ、小学3年生まで八重島で育つ。

 「周りは奄美の人ばかりで身近だった」。10人近い女性たちが自宅1階に共同生活し、一画には子どもは入ってはいけない部屋があった。こうした売春宿がバーや飲食店と共に並び、米兵であふれかえっていた。「女性の生き血を吸うろくでもない男」と池田さんは長く父を憎んだ。

 八重島の成り立ちは、基地が密接に関わる。45年4月1日、米軍は沖縄本島中部の西海岸に上陸後、旧日本陸軍の中飛行場を接収。戦中から周辺の民有地なども接収し、嘉手納基地につながる。

 戦後、女性が農作業中などに米兵に襲われ、暴行される事件が頻発。「米軍人ニ依ル婦女子強姦事件ニ対スル住民ノ指導ニ関スル件」。47年3月の沖縄民政府当時の文書(沖縄県公文書館所蔵)には、被害を受けそうになったら顔や手にかみつき傷を付けるか、衣服を破いて後日提出する証拠を得るよう、記されている。

 一般女性を守る対策が必要という声が高まり、住宅街から離れた八重島に米兵相手の街がつくられた。

 「奄美の島々や宮古島などから来たねぇねぇたちを覚えている。戦争で親きょうだいを亡くすなど苦労した話をよく聞かされた。でも、いつも明るかった」と池田さんは記憶する。女性たちは身を売って稼いだ金を古里の島々へ仕送りした。

 現在の八重島は静かな住宅街に様変わりした。外壁に英語で描かれた店名の跡などがわずかに残るが、100軒以上が連なったかつての夜の街の面影はない。それでも八重島出身とさえ言いたがらない女性は少なくなく、当事者は多くを語ってこなかった。

 池田さんは定年後、一時沖縄に戻って古里の歴史を調べるうちに八重島の歴史を伝え残さねばと突き動かされた。今年3月、「国策としての特飲街八重島」(カストリ出版)を書き上げた。「今更、母たちがパンパン(売春婦)だったと公表してどうするつもりだ」と怒る幼なじみもいた。

 それでも「家族のため生きるために奉公を決意した女性や底辺で働いた人たちが、歴史の中でいなかったことにはしたくなかった」と話す。

 (現在では一部不適切な表現を、時代考証を考慮してそのまま使っています)

【Aサイン】沖縄の日本復帰前、米軍が米兵らの入店を認めた飲食店やホテルに発行した許可証で、店の内外に掲げられた。英語の「APPROVED(許可された)」の頭文字を取った。3種類あり、バーやキャバレーは青いA、飲食店は赤、野菜や肉などの原料を扱う店は黒。取得するには、衛生面などの厳しい検査を受ける必要があった。
横綱朝潮(左から4人目)の隣で、父親に抱かれて記念撮影する池田一仁さんと家族ら=1959年4月10日、八重島で撮影(池田さん提供)
横綱朝潮(左から4人目)の隣で、父親に抱かれて記念撮影する池田一仁さんと家族ら=1959年4月10日、八重島で撮影(池田さん提供)