海軍航空隊基地のある集落。「ウオーン」。牛がうなるようなサイレンが響き、毎日のように空襲が続く。4、5軒の庭先には竹で周りを囲った戦闘機が隠された〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/08/14 20:00)
国分海軍航空隊第一国分基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目
国分海軍航空隊第一国分基地の近くで暮らしていた当時を振り返る立野初枝さん=霧島市国分福島2丁目
 ■立野 初枝さん(95)霧島市国分福島2丁目

国分海軍航空隊の第一国分基地があった東国分村福島集落(現霧島市国分福島)で生まれ育った。父は2歳の時に病死、母は故郷の仙台へ帰っており、世話をしてくれたのは祖母だった。迷惑をかけず、自分の力で生きていけるようになろうと看護婦を目指した。

 1943(昭和18)年3月、18歳で福岡の看護婦養成所を卒業した。帰郷すると、家がない。基地建設のため、近くに強制移転させられていた。

 航空隊に近いわが家には44~45年ごろ、四国出身の特攻隊員が奥さんと下宿していた。5、6人で名古屋方面に戦闘機を取りに行き、1人1機ずつ乗って帰ってくるのを任務としていた。

 仲間の出撃が決まった時は、部屋に10人ほど呼び、酒を飲みながら「俺が死んだらさんずの川でよ、鬼を集めて相撲を取るよ」とダンチョネ節を歌って送別していた。「いつ飛び立つの」とは聞けなかった。出撃すれば戻れないと分かっていたから。難を避けるといわれていたショウブを入れ、五右衛門風呂を沸かすのが精いっぱいのもてなしだった。

 45年4月半ばになると、毎日のように空襲が続いた。朝となく昼となく「ウオーン、ウオーン」と牛がうなるような音のサイレンが響き、心が休まることはなかった。

 敵機は東の上井集落の山の上から急降下し、航空隊を目掛けて「タタタタタ」と機銃掃射してくる。家の防空壕(ごう)に逃げ込んでも、薬きょうが一つ二つと転がり込んできて、生きた心地がしなかった。背中にグサッと刺さるような錯覚を起こすほど。敵機が帰ると「あ、生きていた」と思えた。

 わが家を含め周辺の4、5軒の庭先には、航空隊の戦闘機が隠された。敵機から見えないよう、ほうきを作る竹で周りを囲ってあった。兵隊がやって来て、戦闘機に爆弾を取り付けるのを見かけた。

 空襲は激しさを増し、上井集落に疎開して壕を掘った。昼間にご飯を炊くと煙が出て敵機に見つかる。夜に光が漏れないように気を付けて炊いた。自宅に梅干しやみそ、しょうゆを取りに帰るのも夜。歩いて山を越えた。そのうち米や野菜はなくなり、セリなどを根こそぎ取って食べた。

 ある日、どこで何をしている時か覚えていないが、不意に敵機に襲われ、麦畑に隠れたことがあった。他にも近くに何人かいた。とっさに地面に腹ばいになり、口で息をした。「しまった。敵機はわれわれの真上だ」。そんな声が聞こえ、死を覚悟した。

 爆弾が落ち始めた。一つはヒュルヒュルヒュル、もう一つはジャンジャンジャンと違う音が聞こえた。慌てて耳に指を突っ込むと、「ダーン」と目の前に落ち、背中に砂がバサッバサッとかかった。立っていたら爆風でやられていただろう。

 敵機が去ると、みんな立ち上がって「おーい、おーい、大丈夫か」と声を掛け合った。他人なのに身内のような気持ちになり、無事を喜び合った。あの恐怖は、同じ体験をした人にしか分からないだろう。
鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前
鹿児島県保健婦養成所の同級生らとの集合写真。2列目の右から2人目が立野初枝さん=1944年、鹿児島市公会堂(現中央公民館)前