時計 2020/08/18 20:30

海軍の航空開発の中核・空技廠。製鋼部配属で電気炉の管理を任された。「(大)兵器」の弾頭の製造が始まっていた。特攻専用。後に「桜花」と呼ばれた〈証言 語り継ぐ戦争〉

大原喜八郎さん
大原喜八郎さん
■大原 喜八郎さん(93)鹿屋市向江町

 上屋久村(現屋久島町)宮之浦で7人きょうだいの5番目に生まれた。小学校の成績が良かったため周囲は進学を勧めたが、家は貧しく、上級学校に出す余裕などなかった。

 鹿屋市の久木田洋服店に奉公に出ていた7歳上の長兄が「俺が学校に出してやるから」と申し出てくれ、1936(昭和11)年に旧制鹿屋中学校(現鹿屋高校)、続いて41年、熊本高等工業学校(現熊本大学工学部)電気科に進学できた。

 工業学校入学後すぐ「遅かれ早かれ戦争に行くことになる」と思い、卒業後、海軍技術士官に任官する「委託生制度」に志願して、合格した。その年の12月には、太平洋戦争が始まった。

 制度は人材を海軍が「青田買い」するもので、給料が支給された。兄に金銭的な負担を掛け続けたくなかったから、収入は大きな魅力だった。成績が落ちると、委託は打ち切られるため、懸命に勉強したものだ。

 43年9月に、工業学校を卒業。同月30日、東京・築地本願寺であった海軍技術見習尉官の入隊式に出席した。前日に軍服、外套(がいとう)、短剣、短靴(たんか)など一式を受け取り、敬礼のやり方の研修を受けた。

 学生服を紺の軍服に着替えて臨んだ式典には、海軍大臣や軍令部総長も列席。海軍の期待の大きさを感じ、「頑張るぞ」と思った。

 中国・青島の特別根拠隊で約5カ月間、士官としての心得を厳しく仕込まれた後、44年4月に横浜市磯子区(現金沢区)にあった海軍航空技術廠(しょう)(空技廠)支廠に着任した。

 空技廠は海軍の航空開発の中核施設で、横須賀市追浜町の本廠が機体、原動機などを扱い、支廠は搭載兵器類の研究、実験試作を担当していた。現在の京急金沢文庫駅と金沢八景駅の間にあった広大な敷地には職員約千人、工員約1万人が働いていた。

 私が配属されたのは、爆弾の素材となる特殊鋼の製造・加工を行う「製鋼部」という部署。電気炉の管理を任された。

 戦況が悪くなる中、製鋼部では既に、「(大)兵器」と呼ばれる兵器の弾頭部分の製造が始まっていた。「(大)兵器」とは、後に「桜花」と呼ばれた特攻専用兵器のことだ。(注・定説では「桜花」の開発開始時期は44年夏ごろとされている)。

 正確な加工を担当するのは、たたき上げの技手で、中には神業の持ち主もいた。私たち初級士官は、素材や工程管理や監督が主な仕事だった。

 支廠は45年2月17日から断続的な米軍の空襲を受けた。被害に遭いながらも、終戦の8月15日まで稼働を続けたが、南方からの資源ルートを断たれて、くず鉄の再利用が増えるなど、製造現場の先細りは明らかだったから敗戦に驚きはなかった。むしろ「もう特攻兵器を造らなくてすむ」との安堵(あんど)感があった。

 9月15日まで残務整理をした後、鹿屋に帰った。一つ上の兄は徴用された三菱重工長崎造船所で原爆死していた。進学を支援してもらえなかったら、自分の運命もどうなっていたか。長兄には感謝しかない。

※2016年12月4日付掲載