沖縄特攻。沈没する軽巡洋艦「矢矧」から離れ、重油の海を必死に泳いだ。遠くで大きな水柱。風圧とうねりが押し寄せた。目撃したのは戦艦大和の最後だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/08/19 17:00)
海軍での体験を語り、「二度と戦争はしないように」と諭す石田尾道義さん
海軍での体験を語り、「二度と戦争はしないように」と諭す石田尾道義さん
■石田尾 道義さん(91)屋久島町宮之浦
 軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」に乗り組み、レイテ沖海戦で戦艦武蔵が、沖縄特攻で戦艦大和が沈むのを目撃した。米軍のすさまじい攻撃の中で生き残ったのは、本当に紙一重だった。

 海軍に入ったのは1943(昭和18)年。ちょうどその頃、種子島で飛行場を建設していた。軍隊に志願しなければ、青年団員は徴用されることがわかっていた。軍隊に行くなら海軍と決めていた。戦争に勝つとか負けるとか、考えたことはなかった。

 長崎県佐世保市の相浦海兵団に入団。訓練を受け、その年の暮れに新造船の矢矧に配置された。とても名誉なことに感じた。配属されたのは機関課の電気係。水上飛行機をつり上げるクレーンの操作から電球の交換まで、電気に関わることはすべて担当した。黄色と赤の腕章を着け、艦長室にも入っていけた。

 シンガポール南方に訓練所があり、佐世保から一昼夜かけて航行したり、フィリピン沖で訓練したりした。「陸軍に比べれば歩かなくていい。楽なもんだ」と言い聞かせた。だが、実戦になると、話は別だった。米軍との戦力差は明らか。飛行機の数がまるで違った。武蔵が沈没したレイテ沖海戦(44年10月)では、矢矧も大きな被害を受けた。惨敗だった。

 そして臨んだ沖縄特攻(45年4月)。全乗組員が甲板に整列し、艦長から命令が下った。徳山沖で大和と合流し、大隅海峡を通過した。曇り空の中、故郷の屋久島が見えた。「もうこれで最後だろう」と思った。

 その日の午後、矢矧は米軍の集中攻撃を受ける。魚雷が船尾を捉え、航行不能に。近くにあった蒸気パイプが破れ、熱風が顔を襲う。「総員退避」の命令で甲板に出ると、遺体がごろごろ転がり、飛び込んだ海には重油が満ちていた。

 重油の海を必死で泳ぎ、沈没する矢矧から離れた。空からは米軍機が容赦なく機銃掃射してくる。大きな浮遊物につかまっていると攻撃目標になったため、小さな角材に移った。海面を厚く覆う重油に火がつかないか、気が気ではなかった。生きるか死ぬか考える余裕もない。ただ、なるようになるしかない。遠くで大きな水柱が上がり、風圧とうねりが押し寄せた。戦艦大和の最後だった。信じられなかった。

 夕方になって米軍が去り、駆逐艦が救助に現れた。浮輪に足を突っ込み引っ張りあげられて、やっと助かったと思った。

 帰港した佐世保で終戦を迎え除隊。列車で鹿児島に向かい、一湊(屋久島町)に帰るサバ釣り船を見つけて乗せてもらった。一湊から宮之浦まで歩いて帰り、家族に再会できた。ちょうど十五夜の夜だった。

 兄2人は陸軍で戦死。平和の尊さは身にしみて知っている。だが、一般の人には、戦争の話はなかなかできなかった。復員後は消防団活動を40年務めたが、消防団で一緒だった林浩さん(元海軍パイロット、同町一湊=故人)とだけは、よく戦争の話をしたね。

※2016年8月7日付掲載
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