平壌飛行場で整備兵に。玉音放送の日は残暑が厳しかった。日没前に大爆発音。敗戦の悲報を嘆き、爆撃機に搭乗した若い兵士数人が急降下、滑走路で自爆した〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/09/10 17:00)
「短く散った特攻隊員の無念を忘れたことはない」と語る谷上幸男さん=南さつま市坊津町坊
「短く散った特攻隊員の無念を忘れたことはない」と語る谷上幸男さん=南さつま市坊津町坊
 ■谷上 幸男さん(100) 南さつま市坊津町坊
 戦前、地元の坊泊尋常高等小学校に通っていたころ、「みなさんは皇運を扶翼し(皇室のご運をお助けし)、奉(たてまつ)るために生まれてきたのだ」と教育勅語の一節を教わった。お国のために尽くせよと解釈し、子ども心に愛国心を植え付けられた。

 東京の日立発動機の工場で軍用機整備の仕事をしていた1941(昭和16)年春、21歳で召集令状を受け取った時は、戦地へ赴く覚悟はできていた。坊津に帰省し徴兵検査を受け、9月に入隊命令が届いた。国防婦人会の方々に見送られて、「祝入営」ののぼり、日の丸の旗が振られる中、誇らしい気分で出征した。

 熊本県菊池市の第九航空教育部隊に配属され1年半後、北朝鮮へ向かった。数百人の仲間とともに第二十三錬成隊員として、大同江河畔の平壌飛行場に到着した。飛行兵の基礎訓練が主な任務で、私は整備兵となった。

 毎朝、飛行前の整備をした機体を兵士へ渡す。訓練が終わると、再び点検するというオイルまみれの生活だった。「安全ですから乗ってください」との思いを込めていた。人の命を預かるのが使命だけに、緊張は解けなかった。飛び立とうとする機体から黒煙が上がったり、エンジンが停止したりすると、胸がふさがる思いがした。

 飛行兵は20歳にも満たないような少年たちで、首にマフラーを巻いて訓練飛行する姿がまぶしかった。彼らに憧れて、「戦地へ行きたい」と何度も転属願を出したが、いつも退けられた。

 機体はカラーのラインを付けて命名されており、私は黄色3本の「黄三」を担当した。300時間無事故を達成したとして、部隊長から表彰を受けたことがあった。階級が上等兵から兵長へ格上げされたが、戦地へ行けない悔しさは消えなかった。

 開戦から終戦まで従軍した5年間、銃後の任務で終わった。残暑が厳しい松林の中で玉音放送を聞いた。電波の状態が悪く、よく聞き取れなかったが、漠然と敗戦を認識し悲壮感と虚脱感に襲われた。

 その日の日没前、飛行場で大きな爆発音がして粉じんが激しく上がり、隊員たちは騒然となった。敗戦の悲報を嘆いた若い兵士数人が爆撃機に搭乗し、上空千メートルから急降下して滑走路で自爆したのだった。彼らにも報国の切実な思いがあったのだろう。人を不幸にする戦争の愚かさ、むなしさに身をつまされた。

 後日、この飛行場で訓練した若い兵士たちは特攻要員だったと聞いた。平壌は極寒の地だったが、内地に比べると軍隊の食糧事情はよかった。死の運命を背負った兵士への配慮だったかもしれない。

 戦地へ行かず、戦闘を経験しなかった私は幸運だったのだろう。戦後は法律事務所に勤務し、カツオ船の船長もした。坊津町長を合併まで4期務めた。短く散った兵士たちの無念を忘れず、生かされた命を大事にしたいと今日までやってきた。

 戦争経験がない国会議員は96%になった。大国は競って軍拡路線を走っている。「いつか来た道」を歩まないか心配だ。教育勅語が必要ない世の中になるよう願ってやまない。

※2020年8月28日付掲載