特攻は白紙に。万世飛行場に配属され、任務は特攻隊の援護だった。喜界島までが燃料が少なく開聞岳まで。死ににいく同僚に翼を上下に揺らして別れを告げた〈証言 語り継ぐ戦争〉

(2020/09/11 17:00)
記憶をつづった手記を手に、特攻隊員当時の葛藤と苦悩を語る東郷勝次さん=都城市鷹尾3丁目
記憶をつづった手記を手に、特攻隊員当時の葛藤と苦悩を語る東郷勝次さん=都城市鷹尾3丁目
■東郷 勝次さん(94)都城市鷹尾3丁目
 生まれ育った実家近くには、陸軍都城西飛行場があった。毎日のように飛来する飛行機を見て、パイロットにあこがれた。16歳になった1942(昭和17)年、倍率40倍の狭き門を突破し、少年飛行兵として東京の陸軍航空学校に入校。「大空を自由に飛び回れる」と喜んだ。

 上級校の熊谷陸軍飛行学校(埼玉)で操縦の基本技術を習得すると、当時、日本の占領下にあった中国の飛行隊に配属された。

 三式戦闘機「飛燕(ひえん)」の戦闘訓練に入った45年2月。上官から特別攻撃隊(特攻隊)への志願書を手渡された。選択肢は「熱望する・希望する・希望しない」。「1時間後に提出せよ」と熟慮する暇もなかった。

 同僚全員が「熱望」を選択したと感じた。「お前は成績が良いから選ばれるだろう」「三男坊だから有利だな」-。冗談を飛ばし合いながら、死への恐怖を感じた。「国の役に立ちたい」とみんな強がっていたが、内心どうだったのかは分からない。

 数日後、12人が第110振武隊(血風隊)に選ばれた。私は指名されなかった。なぜかは分からなかったが、ほっとした。

 2カ月後に、三重の明野教導飛行師団に配属された。直後に、上官から「諸君らは『と号』要員だから指示するまで待機せよ」と私を含む20人に命令が下った。「と号」とは特攻のこと。全身に電流が走り、体が硬直した。あの瞬間は、今も忘れることができない。その夜は繁華街に繰り出し、気を紛らわそうと飲み続けた。

 数日間の待機後、飛行第55戦隊への配置換えで特攻は白紙となり、福岡の芦屋飛行場へ配属された。そこで、知覧飛行場へ向かう第110振武隊に再会した。杯を酌み交わしたが、死を間近にした同期の重苦しい雰囲気に掛ける言葉が見つからなかった。「俺たちもすぐ後に続くからな」。そう繰り返すしかなかった。彼らの多くが南海に散った。

 6月には、南さつま市の万世飛行場に配属された。任務は特攻隊の援護。本来は喜界島周辺までの警護だったが、敗戦が濃厚になりつつあり、燃料も少なく開聞岳までだった。死にに行く同僚を横目に、翼を上下に揺らしてせめてもの別れを告げたが、果たして見ていたか。分からない。

 上官に再び集められた。渡されたのは特攻の志願書。先輩たちと「敗戦が濃厚なのに」と言葉を交わしたが、「熱望」以外を選ばせない雰囲気があった。

 私の名が呼ばれることはなかった。指名された同僚は将校並みの待遇を受ける宿舎へすぐに移った。別れも交わせなかった。決意が揺らがないよう、会わせないようにしたのだろう。

 沖縄戦の終結を受けて、大阪の佐野飛行場に転地となった。8月14日、米軍機の飛来を受け飛燕に乗り込んだ。最初で最後の戦闘出撃だった。隊長は戦死し、私は帰還した。その翌日に終戦。「助かった」という思いと喪失感、将来への不安で混乱していた。

 20歳前後の若さで散った同僚の4倍以上の年齢を重ねた。「生きていてよかった。でも申し訳ない」という思いは今も残る。戦後70年から4年かけ、当時の記憶を書き留めた400字詰めの手記は150枚以上になる。「若者が犠牲になる戦争は二度とあってはならない」。紙一重で生き延びた者の使命として、戦争の真実を伝え続けるつもりだ。

※2020年8月22日付掲載
1945年2月、中国の飛行場で三式戦闘機「飛燕」の前に立つ東郷勝次さん
1945年2月、中国の飛行場で三式戦闘機「飛燕」の前に立つ東郷勝次さん
戦時の記憶をつづった東郷勝次さんの手記。特攻志願書の選択肢などが読み取れる
戦時の記憶をつづった東郷勝次さんの手記。特攻志願書の選択肢などが読み取れる