時計 2020/09/15 17:00

ソ連軍進駐の大連。「電気屋です。修理させて」。ソ連人の家を訪ね回り、残飯をもらった。街は無法状態。冬は寒かった。鉄線で電気ストーブをつくって寝た〈証言 語り継ぐ戦争〉

大連時代の思い出を語る池田國治さん=霧島市隼人
大連時代の思い出を語る池田國治さん=霧島市隼人
 ■池田 國治さん(89)霧島市隼人 
 戦時中の私の記憶に残る歌がある。「万世一系たぐいなき すめらみことを仰ぎつつ(中略)荒地開きて 敷島の 大和魂 植うるこそ」―。

 隼人の宮内国民学校高等科2年を卒業したばかり、14歳だった私は1945年3月28日、同級生10人くらいと隼人駅から汽車に乗り込んだ。向かった先は茨城県内原(うちはら)(現・水戸市)の「満州鉱工青少年技術生訓練所」。ゲートルを巻き、戦闘帽子をかぶり、ほふく前進を繰り返す日々。満州に渡る直前の若者を鍛えるこの訓練所で覚えたのが、冒頭の歌だった。

 食前には、天皇陛下と親の恩に感謝して、「箸とらば 雨(あめ)土(つち)御代(みよ)の御(おん)恵み 君と親とのご恩味わえ いただきます」と唱えた。

 3カ月ほどをここで過ごし、山口県の仙崎港から船で釜山へ渡り、満州鉄道から分離独立した日満合弁の満州電業に入社した。本社があった満州首都の新京(現・長春)に、同期数十人と1カ月程度いた後、大連の社員養成所へ移った。

 大連に着いたのは8月初め。既に日本は負けると思っていた。「きょうは重大放送がある」と知らされても、諦めの気持ちだった。

 戦争が終わるとすぐソ連軍の進駐が始まった。日本人と中国人の立場は逆転した。満州全土の電力業務を担っていた会社は中国側に引き渡されたが、私たちはそのまま残り、養成所の寮で暮らしながら、大人の従業員の仕事を手伝って糊口(ここう)をしのいだ。

 会社から支給される食事は1日1回のコーリャンだけ。そこでソ連の言葉で「私は電気屋です。修理させてください。ご飯を食べさせてください」と言いながらソ連人が住む家を訪ね回り、台所の残飯をもらった。この時、意味も分からずに教えられるまま「カピタン」という単語を交えて呼び掛けていた。その意味が「大佐」と分かったのは、ほんの数年前のことだ。

 当時はまだ子どもで男だったし、襲われることはなかったが、街は荒れていた。警察は消えて、無法状態。路上で行き倒れた人も、ずっとほったらかしにされていた。

 大連の冬は寒かった。寮で直径3ミリの黒い鉄線をぐるぐる巻きにして即席の電気ストーブを作り、2枚の布団の端同士を縫い合わせて筒状にした中に友達と潜り込んでくっついて寝た。

 引き揚げ命令は突然だった。47年1月2日、電気修理の手伝いで街に出ていたら呼び戻され、そのまま船に乗せられた。日露の日本海海戦でバルチック艦隊を見つけ「敵艦見ゆ」と電報を打った、あの信濃丸だ。復員輸送船に使われていた。

 長崎に着き、列車を乗り継いで隼人駅に着いたのは1月18日。故郷の家族に連絡する手段もなく、誰にも伝えていなかった。

 鹿児島神宮近くの家に向かう途中で会った知人が知らせに行ってくれたのだろう。向こうから母親が走ってくるのが見えた。台所を飛び出してきたのか、手に包丁と野菜を持ったまま、あぜ道の真ん中で「こげなこっが…。たまがっせえ」と息を弾ませていた。後ろから姉たちも次々に現れた。

 それから自動車修理工として働きながら、親機が電波を受信し有線で各家庭の子機に流す「親子ラジオ」の設置を隼人地域で始めた。23歳で結婚し、隼人駅前で電器店を開業。テレビが本格的に普及し始めると、面白いように売れた。

 戦後、大連に10回以上、足を運んだ。どんどん変わっていった。14歳から15歳の約1年半しか過ごしていないが、苦労しただけに終生忘れられない場所だ。

※2020年6月8日付掲載
大連の海岸で、満州電業の仲間と写真に納まる池田國治さん(前列左から2番目)。1945年夏とみられる(本人提供)
信濃丸(ウィキペディアより転載)