時計 2020/09/28 17:00

零戦の整備を専修、石垣島へ。台湾から沖縄本島に向かう特攻・大義隊の中継基地。「○機を出撃させるよう」と無電。爆弾を装着、早朝や薄暮に飛び立たせた〈証言 語り継ぐ戦争〉

1942年、ラバウルの海軍飛行場に進出した航空母艦「瑞鶴」の整備科員(木之下茂道さん提供)
1942年、ラバウルの海軍飛行場に進出した航空母艦「瑞鶴」の整備科員(木之下茂道さん提供)
■木之下 茂道さん(94)鹿児島市西伊敷5丁目 
 1943(昭和18)年7月、航空母艦(空母)「瑞鶴」の航空整備兵だった私は、神奈川・相模野海軍航空隊にある整備術高等科に進むため、就役以来、2年弱を過ごした艦を下りた。

 瑞鶴は、私の乗艦期間中、一度も敵の爆弾や魚雷を受けなかった強運艦だったが、1年3カ月後の44年10月、フィリピン・エンガノ岬沖海戦で力尽きた。

 最後の任務は、レイテ湾への突入を目指す戦艦「大和」「武蔵」を中心とした部隊から米機動部隊の目をそらす「おとり役」だった。護衛飛行機もほとんどなく、米機の一方的な攻撃にさらされたと、悲惨な戦いの様子を後に聞いた。

 瑞鶴は真珠湾攻撃で日米開戦の口火を切った空母6隻の最後の1隻だった。この艦の沈没により、日本の空母機動部隊は名実ともに消滅した。

 私は整備術高等科で8カ月間、零式艦上戦闘機(零戦)の整備を専修。修了時の44年4月、練習航空隊の徳島海軍航空隊の教員を命じられた。

 航空隊では飛行機の針路を決める航法を担当する偵察員を養成していた。飛行予科練習生(予科練)を終えたばかりの10代の偵察員の卵とともに、機上作業練習機に乗り込み、飛行機の仕組みを教えた。

 教員には、3日のうち2日を基地外に借りた下宿で過ごせる恩恵があった。戦地勤務が長かっただけに、戦争中、普通の暮らしを体験できた貴重な時間となった。

 だが、戦況悪化の中、同年8月には南西諸島海軍航空隊(南西諸島空)への転勤命令が出た。南西諸島空は沖縄本島の小禄飛行場を拠点に、奄美大島から八重山諸島までの飛行場を管轄していた。

 鹿児島航空基地に集合し、練習巡洋艦「鹿島」で沖縄本島に渡った。小禄飛行場近くの小学校に数日滞在した後、さらに石垣島に向かうよう命じられた。

 45年3月下旬、米軍の沖縄上陸作戦が始まると、石垣島は、台湾から沖縄に向かう特攻隊の中継基地となった。

 「明日、○機を出撃させるように」。台湾の司令部から無電が来ると、掩体壕(えんたいごう)や林に隠してあった特攻用の零戦に爆弾を装着。翌日早朝や薄暮に飛び立たせた(注・特攻隊は台湾の台中を拠点とした第二〇五海軍航空隊でつくられた「大義隊」。石垣島からは4月1日から6月7日までに17人が特攻死)。

 整備科の先任下士官として出撃の前夜、特攻隊員と酒を飲み交わすこともあった。必死の特攻を強いられる隊員たちは心中、迷いも多くあっただろう。かわいそうだった。特攻については、言えないこともたくさんある。

 8月15日は、空襲が全くなかった。3日後、上陸用舟艇と飛行機を使い、連合軍が進駐してきた。進駐軍用に洋式のトイレをつくるよう命じられ、急きょしつらえたことを覚えている。

 乗艦した空母が被弾しなかったこと、最後の勤務地が地上戦の舞台となった沖縄本島でなかったこと―など、さまざまな僥倖(ぎょうこう)に恵まれて、生き延びることができた。この年まで生きられたことに感謝している。

※2017年1月12日付掲載