時計 2020/10/15 21:00

台湾引き揚げ船はすし詰め。船酔いで横たわっていると「誰かが投身自殺した」。甲板に残された帽子に屏東中の帽章。クラス一のひょうきん者の名前があった〈証言 語り継ぐ戦争〉

戦後、日台の同級生の交流に尽力した正本敏夫さん。地元紙でも大きく報じられた=鹿児島市明和2丁目
戦後、日台の同級生の交流に尽力した正本敏夫さん。地元紙でも大きく報じられた=鹿児島市明和2丁目
 ■正本 敏夫さん(90)鹿児島市明和2丁目

台湾で生まれ育ち、終戦時は島南部にあった旧制屏東へいとう中学校の4年生だった。翌年の1946(昭和21)年3月、帰国のため日本に向かう引き揚げ船の中で起きた事件を思うと今も胸が痛む。

 船内は多くの引き揚げ者ですし詰め状態。重油の臭いがきつく、船酔いのためほとんど船底で横たわっていた。そんなある日、船内がざわつき「誰かが投身自殺した」と聞こえてきた。甲板に残された帽子から屏東中の生徒らしいとのこと。

 ふらつく足で人垣をかき分けて帽子を手に取ると、確かに「中」の文字に竹の葉3枚をかたどった帽章だった。裏には奄美群島出身の級友の名前が記されていて、がくぜんとした。クラス一のひょうきん者でよくみんなを笑わせてくれた。

 なぜ…。笑顔の裏で、誰よりも敗戦の痛みを鋭く感じ取っていたのだろう。戦争に負けて台湾での生活は一変し、みんなショックを受けていた。

 戦中、台湾の日本人は総じて裕福な暮らしだった。屏東には旧日本陸軍の航空基地があり空襲もあったが、ひもじい思いはしなかった。学徒動員で、級長だった私は他の生徒とは別に廟(びょう)に置かれた師団司令部の暗号班に配属されたこともあった。どんな指令が出たとか、師団同士の暗号文を読み解く係だった。

 45年8月の終戦後も学校は続いたが、日本人に代わって中国人や台湾人の先生が赴任し、北京語の語学中心の授業となった。1学年の生徒約100人のうち7割が日本人だったが、徐々に登校する人は減っていった。

 旧制中学を卒業した証しがどうしてもほしかった私は、引き揚げが迫った46年2月、日本人同級生に呼び掛けて中国人の校長を訪ねた。生徒はたった11人しか集まらなかったが、下手な英語の筆談で恐る恐る早めに卒業証書がほしいことを伝えると、すぐに用意して渡してくれた。帰国後の手続きで役立った。もう手元にはないが、中国語で卒業を意味する「畢業」という文字だけは今も鮮明に記憶に残っている。

 約半世紀後の95年、台湾で同窓会が開かれた。台湾人同級生が学校に働きかけ、日本人の元生徒に新たな卒業証書が授与された。台湾式の漢文で書かれていたが、立派な用紙に「卒業」とあった。学友の温かい友情に胸が熱くなった。「屏東高級中学」となった母校は、粗末な木造平屋の校舎から4階建ての近代建築となり、生徒数も増えてその発展ぶりに目を見張った。

 喜界島出身の両親の間に生まれたきょうだい5人のうち、旧陸軍にいた長男はグアム島で戦死した。一緒に引き揚げてきた姉、兄、弟も既に亡くなった。ソ連(現ロシア)の次に嫌いだったアメリカにいつか行き、けんかしてやろうと英語の教員となったが、良き友人となった。

※2020年10月15日付掲載