〈硫黄島 激戦前夜〉超低空で接近した敵機の急襲 1時間後、東の海上に現れた米艦隊 近距離から2時間の艦砲射撃 地下壕でじっと待つしかなかった

2020/12/12 14:55
南端の摺鉢山から見た硫黄島。旧日本軍の将兵1万人以上の遺骨が地中に残されたままとなっている=2019年5月、東京都
南端の摺鉢山から見た硫黄島。旧日本軍の将兵1万人以上の遺骨が地中に残されたままとなっている=2019年5月、東京都
〈元学徒兵の回顧録④〉

 硫黄島に出征し、しばらくした1944(昭和19)年12月、共同作戦にあたる海軍トップの市丸利之助少将から直々、訓示があった。陸軍飛行第23戦隊の西進次郎さん(97)=鹿児島市宇宿3丁目=は海軍兵らと一緒に整列して聞いた―。

 市丸少将の「しっかり頼む」という激励は、哀願するような印象を受けた。訓示後、戦闘準備を整えている最中、見張り所から慌ただしく打ち鳴らす鐘の音が飛行場一帯に響いた。鐘を鳴らす警報は、敵戦闘機の急襲。数機がレーダーにキャッチされないように超低空で急接近し、いきなり地面をはうようにして機銃掃射してきた。サイレンを作動する時間もなく、兵士らは大急ぎで壕〔ごう〕に駆け込んだ。

 その時、親友の1人は戦闘機の暖機運転中で鐘の音が聞こえず、機銃の弾を背中に受けて重傷を負い、その日のうちに亡くなった。東京大学在学中の学徒兵だった。遺体は島北部の墓地に埋葬した。後日談になるが、90歳を過ぎてから彼の遺族と会うことがかなった。

 急襲から1時間ほどすると、島の東海上に敵艦隊が現れた。8、9隻ほどの重巡洋艦のようで、1列縦隊で向かってきた。5千メートルほどまで近づくと、島の北端から南端の摺鉢山までゆっくり進行しながら、しらみつぶしに艦砲射撃を続けた。摺鉢山を回って島の西側でも南から北へ走りながら計2時間ほど砲撃を続けた。

 この間、守備隊は壕に退避し、じっと我慢して待つしかなかった。全くの無抵抗。米艦隊にとって、こんな楽な砲撃はなかっただろう。そもそも島まで5千メートルほどまで近づいて砲撃するなんて、守備隊を軽視している証拠だ。しかし、幸いなことに人的被害はほとんどなかった。島中を縦横に掘り巡らせた地下壕のおかげだった。

 同じ頃、サイパン爆撃に向かう一式陸上攻撃機17機が日本から到着した。各機800キロ爆弾1発だけを装着して夜に飛び立った。無事に帰ってくれと祈ったが、翌朝、帰還を確認できたのは10機のみだった。出発前、パイロットたちが歌った軍歌が今も耳に残る。

 島にいる間、艦砲射撃は3回あったと記憶するが、空襲は日ごとに激化し、毎日6、7回も警報が鳴るようになった。44年末には飛行第23戦隊の戦闘機は全て撃墜されたり地上で破壊されたりして戦死者3人、重傷者2人を出した。大みそかには島北部の兵団司令部壕(栗林壕)近くへ移動した。陸軍の駐屯地に小屋をあてがわれ、鹿児島弁で話せる兵士が大勢いてうれしかった。

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