「大空襲ニテ一家全滅」。人間魚雷「回天」の訓練を受けていた私に叔父から連絡が入った。生き残ったのは戦争に行った私だけ。復員後、家族の遺体を掘り起し火葬した〈証言 語り継ぐ戦争〉

2023/02/13 10:00
「戦争は二度と起こしてはならない」と語る桐原正吾さん
「戦争は二度と起こしてはならない」と語る桐原正吾さん
■桐原正吾さん(81)南さつま市加世田唐仁原

 一九四五(昭和二十)年六月末、山口県平生町の海軍基地で、人間魚雷「回天」の訓練を受けていた私の元に鹿児島の伯父から連絡が入った。

 「鹿児島大空襲ニテ一家全滅、遺体確認」

 ただちに外出許可をもらい、西鹿児島駅に降り立った。駅から海岸まで見渡せるほど一面焼け野原で、遠くに桜島が浮かんで見えた。鹿児島市堀江町に住んでいた両親と兄、妹、弟は空襲で死亡。遺体は一週間後に発見され、伯父らの手で鹿児島市が特設した埋葬場に埋葬されていた。

 四三年に東洋大学に進学した私は、道半ばで翌年、学徒出陣で海軍予備生徒として入隊した。(中国の)旅順予備学生教育部で四五年二月まで教育を受け、震洋艇の基地だった佐世保市の川棚、平生と転属。終戦は、横須賀市で人間魚雷「海竜」の特攻隊員としての訓練中に迎えた。

 その転属先を追いかけるように何通も届いたのが、母からの手紙だった。「内でも皆大元気にて働いて居ます。御安心ください。朝な夕なにみんな武運強かれと祈って居ます。写真がとどきました。ほんとうになつかしいでした。とてもおせらしい姿です(以下略)」

 母は継母だった。兄と私を生んだ母は病死し、その後嫁いできた。記憶にはないが、私は嫁いできた母の嫁入り道具をめちゃくちゃにし水浸しにするなど「継母いじめ」をしていたらしい。

 しかし、母は実の子と区別なく愛情を注いでくれた。その愛情に本当に気付いたのは入隊後だった。私の体を気遣い、祝い事には私の写真にごちそうや酒を並べてくれていたそうである。

 旅順から同じ九州の川棚に転属したときは「旅順より無事帰り、ほんとうに嬉(うれ)しいです。一度面会したいですが、許可ないでせうか、おたずねします」と手紙をもらった。しかし、機密の特攻隊。許可は下りないとあきらめた。

 「天皇陛下万歳」と亡くなった人もいるようだが、私は「最後は母」という思いだった。川棚で手紙をもらったときも、「無理して帰ればよかった」と後悔した。戦争に行った私だけが生き残り、復員後すぐに両親兄弟の遺体を掘り起こし水で清め、火葬し埋葬した。

 戦後私は、父の家業だったみそしょうゆ製造業を再興した。つらいとき、支えてくれたのが亡き家族との絆(きずな)だった。

(2006年6月6日付紙面掲載)

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