部隊長の大竹元治少佐ら恩人の写真を手にする高田俊秀さん
■高田俊秀(こうだ・としひで)さん(83)
出水市上鯖渕-㊤
一九四五年六月十六日、第三二軍通信隊電信第三六連隊の伊藤中隊所属で軍司令部の参謀部伝令兵として沖縄県糸満市にいた。宇江城(うえぐすく)から真栄平(まえひら)に入ろうとする畑で艦砲射撃を受け両足、腕などを負傷。即死だった別の兵の死体が頭部と胴体を覆っていたので致命傷を免れた。止血後、女子学徒看護婦四人らに担送してもらう。しかし途中で迫撃砲の集中射撃があり三人は戦死した。
かやぶきの三角兵舎に運ばれた。戦死や自決の報が相次いで入る。負傷兵が運ばれてきては息を引き取った。自決したいと頼んだが取り合ってくれない。横には死んだ兵の死臭とたかる銀バエ。閉口した。中隊の移動が決まり交戦の中を担架で運ばれた。担ぎ手にけがをされては申し訳ない。「死なせてほしい」と頼み、運んでいる途中で置き去りにしてもらった。剣も手りゅう弾もない。「ブゥーン、ブゥーン」。時折大きな破片が飛んでくるが当たらない。
攻撃も止み起き上がろうとしたらひざに激痛が走った。ふと近くに片足の太ももがちぎれ、ぼろ切れで包んでいる女性に気がついた。女性より自分の傷は軽い。何が何でも所属隊と合流し玉砕すると決心。何度も倒れながら訓練し、歩けるようになり隊を探し始めた。
二十日夜、摩文仁台地への上り口付近。のどは渇ききっていた。民家の水槽には一滴の水もなかった。幸い近くに小さな池。腹ばって夢中でがぶ飲みした。起きあがって驚いた。池に死体が浮かんでいた。ウジ虫もいるらしく、満月が映る水面がゆれていた。この池は汚水の池だった。だが、自分には命の水。この水がなかったらおそらく生きられなかった。
摩文仁の司令部に約一キロと迫った。砲撃が激しくなる。覚悟は決めていたので伏せなかった。照明弾が絶えずうち上げられ道路に点在する死体も確認できた。砲弾とせん光の中、爆音にかき消されながらもか細い声が聞こえた。「殺してぇ、殺してぇ」。数人の死体の傍らに、はらわたを引きずっている女性がいた。
「よし殺すぞ」と剣を抜くとあえぎながら「違う」というようにかすかに手を動かした。その先には無残にも片腕をもがれた赤ん坊。死んではいない。体は朱色に染まり、目は閉じてかすかに息をしていた。助からないと思った。女性は攻撃を受けて吹き飛ばされながらも、わが子の元へはっていこうとしていたのだ。何かを考えるゆとりもなく赤ん坊の心臓のあたりを突き刺した。人間の気持ちを失っていた。
ぐったりした赤ん坊を女性の胸にあてがい両手を添えてやった。女性が何事かをつぶやいた。とぎれとぎれの言葉は爆音にかき消されて聞き取ることができない。そのうち息を引き取った。その瞬間から、記憶が一時、ぷっつりと切れた。凄惨(せいさん)な場面は今でも思い出したくない。
(2006年7月12日付紙面掲載)