母タミヱさんの遺影を持つ簗瀬友成さん=出水市高尾野町柴引
■簗瀬友成さん(83)鹿児島県出水市高尾野町柴引
父清は南満州鉄道(満鉄)の職員、母タミヱは病院の看護師・助産師として1935(昭和10)年、満州(中国)に渡った。私は39年に錦州市で、5人きょうだいの2番目に生まれた。家には当時、母の郷里・南種子町から親戚の若い女性を呼び、現地のお手伝いさんも雇い、割と裕福な生活を送っていたと、後で母から聞いた。
太平洋戦争が続き、わが家も戦況悪化に備えた。父が家の下から庭先の下まで10メートル以上のトンネルを掘り、家族3、4人が入れるくらいの小さな地下壕(ごう)を造った。終戦間近の頃は連日空襲で、防空頭巾をかぶり逃げ込んだ。壕の中にたまった冷たい雨水に腰までつかり、空襲が終わるまでじっと我慢した。
45年8月15日に終戦を迎え、玉音放送を聞いた日本人の大人たちが肩を落として涙ぐむ姿を見ながら、近所のため池で一人たたずんだ。将来はどうなるのだろうと、非常に不安になった。
ソ連軍の侵攻により連日、略奪、暴行が繰り返された。その恐怖は今でも鮮明に覚えている。20歳くらいの親戚の女性は毎晩、屋根裏に逃げ込み息を殺して恐怖に耐えた。ソ連兵が5、6人で2、3回、土足でうちに上がり込み、長い銃を母に突き付けたことがあった。「母ちゃんが殺される。殺さないで」と大声で泣き叫んだからか、ソ連兵は手を出さなかった。若い女を探していたのかもしれない。
46年3月、日本に戻ることになった。父は戦中、軍隊に入り連絡が途絶え、2歳上の姉は私が生まれる前に病気で、3歳下の弟は日本に引き揚げる前にはしかで息を引き取ったため、母と2人で福岡・博多港を目指した。
錦州から港がある大連までの満鉄による逃避行は、貨物列車の無蓋(むがい)貨車(屋根のない箱形)に荷物同様、日本人ばかりがすし詰め状態だった。線路沿いにいた中国人が、すっかり変わった反日感情で貨車の日本人に向かって石を投げ込んだので、毛布を頭からかぶり、何時間も揺られながらじっと耐えた。弟の遺骨を一つリュックサックに背負い、母は丸坊主にして顔に墨を付けるなど男の格好をしての帰国だった。
父の古里・出水市高尾野に行くと、父が復員していると親戚から聞き、心の底からうれしかった。だが、地元の小学校に入学すると、「引き揚げ者」と同級生らから何度も差別を受けた。何で同じ日本人なのに、いじめられないといけないのかと悔しかった。よそから入ってきた人に対する違和感があったのかもしれない。学校に行きたくない日がたびたびあった。
のちに弟2人が生まれた。大工では生活が苦しかった父が、北九州市の炭坑に出稼ぎするため一家で引っ越したものの、父はけがが原因で55年、43歳の若さで亡くなった。高尾野に戻り母は農業をするなど、女手一つで男3人を育てた。13年前に92歳で息を引き取ったが、父の分まで生き抜いたと思う。
戦争は自分だけが助かればいいとか、食べられればいいとか、他人を思いやれなくなる。人同士で傷つけ合い、人間が人間でなくなる。中学校の社会教諭になったが、嫌な思い出でしかない戦争のことは、生徒たちに話したくなかった。
人間は平等。一人一人が他人を大切にして思いやり、平和な世の中が続いてほしいと願っている。