戦争の体験をまとめたメモを手にする久田サツキさん=出水市向江町
■久田サツキさん(82)出水市向江町
一九四三(昭和十八)年十一月、出水町内(当時)にある軍飛行場に格納庫を造るため、一軒から子供と年寄りを除く二人以上を奉仕に出すよう通達があった。母はぜん息で病弱だったので私と父良助=当時(55)=が作業に出た。
同月十七日、役場から熊本県の健軍という所で女子挺身(ていしん)隊員として一年間従事するよう連絡がきた。そこは軍事工場や飛行場がある。出水町から五人、野田村(当時)から二人が動員された。私は飛行機の補助翼を造る担当で、早朝から夜遅くまで働いた。食事はコッペパンや食用カエルなどだった。次第に戦争が激しくなる。機械や部品も少なくなり、女性は芋作り、男性は防空壕(ごう)掘りの毎日。契約の一年を過ぎたが帰れなかった。
四五年六月下旬、出水から父と妹ノリ=当時(17)=が、苦しい生活を察して生もちや大豆などの食料と反物を支那カバンに詰め込んで面会に来てくれた。「はるばる来てくれたね」と話しながら互いに涙した。戦争中なので長居はできない。間もなく二人は帰路に就いた。いざというときを考え、もらったばかりの月給三十七円をカバンに入れた。
七月一日、「熊本大空襲です」の放送。ねんねこ丹前一枚で市街地から少し離れた高台の防空壕に避難した。二十七機が立て続けに市街地めがけて爆弾を投下。ところが、二十八機目は私たちの防空壕の前に落とした。その先は何がなんだか覚えていない。真っ暗闇の中で、自分と友だちの名前を呼びながら無我夢中で駅へ向かった。カバンを置き忘れたことを思い出したがどうにもできなかった。
新市街は火の海で、あちこちに死体が点在。恐怖におののきながら死体を乗り越えて走り、下りの汽車に飛び乗った。空襲のため、八代駅と水俣駅で列車から一時降ろされた。そして二日の午前四時、ようやく出水駅に到着した。駅に降りた途端、「バーン」と不発弾が爆発。生きた心地がしなかった。
家に着いた。母ヨト=当時(52)=は私の姿を見るなりぼう然。しばらく言葉もなかった。そして「生きっとったやー」とすがりついて泣き崩れた。そのとき「あー、生きていたんだなあ」と実感がわいた。翌日、役場でり災証明書を申請。職員から「ご苦労さまでした」とお礼を言われ、気持ちが一気に楽になり責任を果たした安堵(あんど)感が出てきた。
十年ほど前、熊本市にいく機会があり、市内を巡りながら復興していることに驚いた。いまでも飛行機の爆音が聞こえてくると頭の片隅が「キ、キーィン」と痛く、まぶたの奥に空襲や道路に死体が転がった様子などが浮かんできて、どうしようもないときがある。
(2006年7月24日付紙面掲載)