ドーン。サイパン沖で船団を襲った魚雷攻撃。あっという間に船体は倒立状態になり船首から海中へ。必死にしがみついた私は船体ともども引き込まれていった

2023/06/19 10:00
同僚らの写真を見て戦時を振り返る福留文雄さん=頴娃町別府
同僚らの写真を見て戦時を振り返る福留文雄さん=頴娃町別府
■福留文雄さん(81)頴娃町別府(現・南九州市)

 一九四三(昭和十八)年十一月十九日、サイパン島の東方海上。製鉄会社で船員をしていた私は、トラック諸島(ミクロネシア連邦)で建材や弾薬の荷揚げを終え、日本へ帰航する途中だった。乗っていた鵜戸丸は護衛船をはじめとした四隻の船団を組んでいた。

 午前五時ごろ、当直の見張りを終えて甲板で休んでいると、ドーンというごう音とともに僚船から真っ赤な火柱が上がった。「魚雷攻撃だ」。そう直感した私は急いで船室に戻った。救命胴衣を着けたのと、ほとんど同時だった。ごう音が響き、体が浮くほどの衝撃に襲われた。

 真っ暗になった船室から手探りで甲板に飛び出した。あっという間に船体は倒立状態になり船首から海中に突っ込んでいった。海水が噴き上げてくる中、パニック状態になりながらも必死に船にしがみついていた私は、船体ともども海中に引き込まれていった。

 その後、どうやったか覚えていないが、気がつくと海に浮いていた。まだ辺りは暗く、遠くは見えない。目に入るのは空と海だけだった。「助けてくれ」と心の中で何度も叫んだ。南方の海とはいえ季節は秋。時間がたつと体も冷えきって、がたがたと震えがきた。さらには夜が明けると、うつぶせのまま浮いている同僚らしき姿も目に入った。

 漂流から四時間ほどたっただろうか。「おーい、おーい」と声が聞こえた。救助船から出されたボートからだった。「助かった」と思い、がぜん元気がでた。救助船には、生き残った同僚らが大勢おり、手を取って無事を喜び合った。同時に、五人が不明、もしくは死んだことも知った。僚船のことは分からなかった。生き残った私たちは幸運だっただけだ。ただただ同僚らと五人の冥福を祈った。

 十日間の長い長い航海を終え横須賀港に戻ることができた。救助船で配給された一日二回の食事は粗食だったが、ありがたく、この上なくおいしく感じたのを覚えている。

 後に会社の記録で、終戦までに五十二隻が沈み、五百七十人余の命が失われたことを知った。

(2006年8月5日付紙面掲載)

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