「やっと生きた証ができた」 沖縄・平和の礎に刻まれた元海軍の伯父の名前。終戦から69年経っていた #戦争の記憶

2023/08/15 17:05
今村順藏さんが刻銘され、平和の礎を訪れた村久木美野子さん(左)と佐藤千野子さん=2014年6月22日、沖縄県糸満市(村久木さん提供)
今村順藏さんが刻銘され、平和の礎を訪れた村久木美野子さん(左)と佐藤千野子さん=2014年6月22日、沖縄県糸満市(村久木さん提供)
 2014年6月、沖縄県糸満市の平和祈念公園の石碑「平和の礎(いしじ)」に、沖縄戦で帰らぬ人となった鹿児島県日置市出身の今村順藏さん=享年(25)=の名前が初めて刻まれた。「奥さんも子どももいない。やっと生きた証しができた」。遺族は碑の前で涙を拭った。

 今村さんは8人きょうだいの7番目に生まれた。待望の男の子で、周囲から「美男子」とよく言われた。独身のまま海軍佐世保海兵団(長崎)に入団した。

 遺族が保管していた海兵団のアルバム「四等水兵修業記念」によると、1938(昭和13)年1月に第24分隊に配属。普通科信号術練習部にも在籍した。軍艦で鹿児島に立ち寄ることがあり、家族を訪ねることもあったという。

 45年3月26日、日本は沖縄・慶良間諸島に上陸した米軍との沖縄戦に突入した。その2日前、派兵の途中だったとみられる今村さんの船は、沖縄近海の東シナ海で米軍の攻撃によって沈没した。遺族の元には、遺骨の代わりに白い木箱に入った木の葉が届いた。

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 今村さんの妹で、2015年に93歳で死去した都美子さん=日置市伊集院町飯牟礼=は戦後、娘たちに「兄は沖縄戦で死んだ」と繰り返し語っていた。

 1999年、長女の佐藤千野子さん(73)=兵庫県明石市=はツアーで沖縄を訪問。旅程に入っていた平和祈念公園を初めて訪れた。碑に順藏さんの名前を探したが、見つからなかった。

 「沖縄で戦死したはずなのに」。悶々(もんもん)とした思いを抱え続け、2013年に新聞社を通して鹿児島県に問い合わせた。すると、沖縄戦に絡んだ戦没者と判明。追加刻銘が決まった。

 14年、沖縄慰霊の日の6月23日の前日に、佐藤さんと妹の村久木美野子さん(66)=鹿児島市明和3丁目=は碑の前に立った。「69年ぶりに念願がかなった。伯父さん、安らかに」

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 碑には今も多くの名前が追加され続けている。鹿児島出身者も数年に1人の頻度で記される。一方で、遺族が「消してほしい。戦争のことは思い出したくない」と要請し、既に刻まれた名前を削除するケースもある。

 碑を所有する沖縄県は毎年6月1日、県出身者の刻銘や取材対応可能な遺族を報道機関に発表する。担当者は「なるべく多くの名前を後世に残したいが、遺族はみな複雑な思いを抱えている」とおもんぱかる。

 今村さんがどんな人生を送ったのか、今となっては知ることは難しい。村久木さんは平和の礎に名前が刻まれ、報道で広く知られるのを素直に喜ぶ。「伯父も、伯父を思い続けた母も浮かばれます」

■平和の礎(いしじ) 1931年の満州事変以降の全ての沖縄出身戦没者や、沖縄戦に関わる作戦や戦闘で死亡した全ての人が刻銘される。今年新たに刻銘されたのは365人(沖縄県内24人、他都道府県341人)。総数は24万2046人。沖縄県が14万9634人で最も多く、北海道が1万805人で続く。鹿児島県は2930人。米国1万4010人、韓国381人など、海外5カ国の戦没者も記されている。

(連載「果てぬ涙 かごしま終戦78年」より)

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