沖縄海軍航空隊に着任して3カ月。同郷の同期が操縦する九七式艦攻が姿を消した。「あたいが戻らなければ遺品整理を頼む」。前の晩そう言い残して【証言 語り継ぐ戦争㊥】

2023/09/03 09:15
沖縄海軍航空隊使用の二式中間練習機(ウィキペディアから転載)
沖縄海軍航空隊使用の二式中間練習機(ウィキペディアから転載)
■庭月野英樹さん(97)宮崎市希望ケ丘1丁目(鹿児島県南九州市出身)

 民間パイロット養成所から18歳で海軍航空隊の搭乗員になり、沖縄戦や特攻隊員の選抜・訓練を経て、生き延びた庭月野さんの回想を紹介する。

 長崎県諌早市の逓信省長崎航空機乗員養成所での10カ月間、100時間に及ぶ飛行訓練を終えた私たち第13期操縦生48人は1944(昭和19)年2月、兵庫県加西郡(現加西市)の姫路海軍航空隊に移った。愛媛県の養成所を終えた同期生も合流して、第14期海軍飛行科甲種予備練習生(予備練)となった。

 3人乗りの九七式艦上攻撃機(九七式艦攻)の操縦課程を修める実用機訓練を2カ月半で終え、同年4月15日、18歳で海軍1等飛行兵曹(1飛曹)に任官した。

 養成所入所からわずか1年余。戦局の逼迫(ひっぱく)を受け、本来の養成期間を半年間短縮しての独り立ちだった。過酷な訓練を乗り越え、搭乗員になれた喜びの一方、戦況は明らかに厳しさを増していた。「これからどうなるのか」。一抹の不安を抱えながら同期生は各地の任地に散っていった。

 鹿児島港から同期5人と船で向かったのは那覇市の小禄(おろく)飛行場(現那覇空港)に拠点を置いていた沖縄海軍航空隊(沖空)だった。以前は佐世保海軍航空隊の分遣隊に過ぎなかったが、南西諸島海域で米潜水艦の魚雷攻撃による味方輸送船団の損害が深刻になっていたことを受け、対策拡充を目的に独立した部隊だった。

 乗機として与えられたのは二式中間練習機(二式中練)だった。固定脚の2人乗り金属製機で最高速度は時速280キロ。60キロ爆弾2発を積み、対潜水艦哨戒や船団の上空護衛を担当することになった。

 着任から3カ月がたった7月19日のことだった。加世田出身で長崎養成所の同期生、西喜三郎君が操縦して、哨戒飛行に出た九七式艦攻が予定時刻を過ぎても基地に戻ってこない。手提げランプを滑走路に並べて待ち続けたが、燃料が尽きる時間になっても機体は姿を現さなかった。

 翌朝、同期生で捜索を志願し、2機で飛行コースをくまなく捜したが、油膜一つ見つけられぬまま、未帰還扱いとされた。同期生で初の死者だった。

 実は前の晩、任務に慣れてきたこともあって、滑走路脇で同期生5人と飲みながら談笑していた。西君が突然、鹿児島弁で「庭月野さぁ、あたいが戻らんじゃったとか、遺品整理を頼もんでなあ」と言い出した。戸惑いつつ、「何をいうのか。お互いさまじゃが」と返答したが、何か虫の知らせがあったのかもしれない。

 大海原を単機で飛行する任務は、機体に不具合が起きた場合、そのまま行方不明になってしまうケースがほとんどだった。日本軍には米軍のように、不時着した搭乗員を救助する体制もなかった。一寸先は闇。それが当時の搭乗員の常識だったように思う。

 私が沖縄海軍航空隊(沖空)に着任した1944(昭和19)年4月下旬、那覇市にはまだ穏やかな日常があった。本土では入手が難しくなっていた菓子が、街ではふんだんに売られていた。鹿児島から船で那覇港に着いた日、同期生5人と山形屋デパートで黒糖のアイスクリームに舌鼓を打ったことを覚えている。

 だが同年7月7日、米軍の攻撃でマリアナ諸島サイパン島が陥落。政府は、今後の有力な侵攻目標は南西諸島だとして同日、老幼婦女子10万人の日本本土、台湾への疎開を決定する。8月には、国民学校児童を対象とした本土への集団疎開が始まった。

 8月21日夕、本土に向かう輸送船団を那覇港からしばらくの間、上空で護衛した。多くの乗客が甲板から手を振っていた。疎開児童を乗せた船団の中の一隻、対馬丸(6754トン)が22日深夜、十島村の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈み、疎開児童784人を含む1500人近い人が亡くなったのを知ったのは後のことだ。

 乗機だった二式中型練習機(二式中練)の航続距離は800キロ余。60キロ爆弾2発を積めば、与論島ぐらいまでの往復が精いっぱいだった。夜間哨戒の技術はまだ未熟だった。潜水艦は夜を選び攻撃したのだろう。
 10月10日早朝、敵潜水艦捜索に出るため、小禄飛行場(現那覇空港)で乗機の試運転をしていると、突然、対空戦闘のラッパが鳴り響いた。

 間もなく、東の空からゴー、ゴーと大編隊の爆音が響き、濃紺色の米海軍グラマン戦闘機の群れが、機銃掃射をかけてきた。慌てて待避壕(ごう)に転がり込んだ。

 台湾への空輸途中に翼を休めていた「零戦」や陸軍機が機銃弾を浴び、たちまち燃え上がった。新鋭攻撃機の「天山」も、熱で溶けた機体のジュラルミンを血のようにポタポタ垂らしていたが、胴から真っ二つに割れた。

 飛行場への先制攻撃で日本の迎撃能力を奪った米軍は、急降下爆撃機で市街地や港の攻撃を始めた。延べ5回、1400機による大空襲で、多数の船舶が沈められ、市街地の9割が焼失した。緑豊かだった那覇の街は灰色と化した。

 滑走路に大穴が開いた小禄飛行場では昼夜を徹して復旧作業が行われ、4日後には、米軍に反撃するための航空隊が本土から大挙して飛来した。中には長崎航空機乗員養成所や姫路海軍航空隊時代の同期生や教官の姿もあった。

 空襲で乗機を失った私たちは、給油や整備を手伝いながら限られた時間で旧交を温め、南に向かって飛び立つ彼らを見送った。台湾沖航空戦の始まりだった。着任から2カ月余、沖縄が戦いの前線となったことを実感せざるを得なかった。

(2023年8月28、29日付紙面掲載)

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