命がけだったという避難の様子を話す花田行孝さん
■花田行孝さん(93)鹿児島市新屋敷町
一九四五(昭和二十)年六月十七日の鹿児島大空襲は、六十年以上たった今でも、忘れることができない。
伊集院の実家に帰っていた妻と生後半年の娘に会い、鹿児島市新屋敷町の自宅に夕方帰宅した。前庭にこしらえた物資壕(ごう)に置いたタンスの衣類がぬれたというので、家中にヒモを張り巡らせて干してあった。その下、シャツ一枚で疲れた体を横たえた。
突然、空襲。西の窓から炎が見えた。西駅(現鹿児島中央駅)方向に火の手。跳び起きて家族に声をかける。家に火が入らないよう、兄弟三人で井戸の手押しポンプを動かし水をかけた。だが焼夷(しょうい)弾は容赦なく雨のように降り続く。照明弾のためか、あたりは夕方のように明るい。
そのうち、敵機は消火の人影をめがけて機銃掃射を始めた。ついに家にも火が入った。前庭の防空壕にいた父母を裏庭の壕に連れていく。「もうだめだ」。消火を続けていた兄弟も壕に逃げ込んできた。
火はたちまち家を覆い尽くした。壕の中に迫りくる熱気。「ここでは危ない」。親子五人必死になって竹がきを越え、近くを流れる甲突川沿いの降り口にへばりついた。
川面はあちこちで炎を上げ、まさに「火の川」。助けを呼ぶ声も聞こえるが、手が出せない。あたりを包む煙が目にしみる。布ぎれに川の水を浸し何度もふくが、泥でザラザラだ。
目をこらしてみると、川一面に油の膜が張っている。絶え間なく火が走る。対岸(旧鹿児島学芸高側)にある河原に行きたいが渡れない。母が手に父の持薬を握りしめている。自分も娘のミルクだけを抱えて逃げていた。
ようやく父母の手を取って川を渡れた。河原から上がり、腰を下ろし自宅が焼け落ちるのをぼうぜんと眺めていた。あたりには自分たち以外に人影はなかった。熱風が渦巻き火が上がるのが見えるが、不思議とここには火が来ない。時間は分からない。
空襲と火がやみ、少しずつ空が白み始めた。川べりの石がまだ熱い。自宅に戻ると、竹垣が根元まできれいに焼き払われていた。家族五人が無事だったのが、不思議に思われた。
朝になっても人影はまったくない。菜園のキャベツは外側が焼け、中が煮えていた。鶏小屋では鶏が蒸し焼きになっている。睡魔に襲われ、壕に倒れ込んで眠った。
自宅周辺で焼け残ったのは二軒だけ。通りには電車が一両焼け落ちている。一望千里。西駅あたりの騒音がやけに近く聞こえる。桜島の方を見ると、キラキラと輝いては消える何かが見えた。遠くの防波堤に打ち寄せる白波だった。
まだビルは、ほとんどないころ。その光景を妙にはっきりと覚えている。
(2006年8月28日付紙面掲載)