父・國雄さんの写真を手に満州国から引き揚げた当時を語る森薗善弘さん=南九州市川辺町平山
■森薗善弘さん(82)鹿児島県南九州市川辺町平山
太平洋戦争の口火を切る真珠湾攻撃があった1941年、旧満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)で生まれた。父國雄が関東軍で部隊を指揮していたため、母美恵子ときょうだい合わせて6人で官舎に住んでいたと聞いている。
街が戦火にさらされたことはなく、食料や物資にも困らなかったため、戦時中という認識はなかった。覚えているのは、近くを通る満人(中国人)が私たちの恵まれた生活をうらやましそうに見る姿。優越感があったのか、日本人の間では満人を下に見る風潮があった。
日ソ中立条約を破りソ連軍が侵攻してきた45年8月、事態は急変した。父ら関東軍が突然官舎に帰って来なくなった。母は「ソ連軍に連れて行かれた」と話していた。シベリアに抑留されたと後の報道で知った。
軍がいなくなると、満人も態度を変えた。恨みを晴らすかのように石を投げつけたり、物を盗んだりするようになり、残された軍人家族は追い出される形で奉天を後にした。平和な暮らしが一変し、身の危険を感じて初めて、戦時中だったこと、戦争に負けたことが4歳だった私にも分かった。
居場所がなくなった私たちは日本へ引き揚げた。その後の記憶はあいまいだ。両親の古里・旧川辺町に着いた時、気付けばきょうだいは2人になっていた。死んだのか、売られたのか、そもそも本当にいたのか。当時ははっきり覚えていなかった。
ただ、船が出る港への道中に見たがれきと化した街並み、母国への引き揚げを待つ人であふれる港、博多に着港後、検疫で入れられた施設を抜け出した夜など、衝撃的だった光景は今も脳裏に染みついている。
川辺小学校に入学すると、差別に苦しむ日々が待っていた。厳しい帰路のせいで痩せた体、霜焼けの残る足、話す標準語が、田舎の人には異質に見えたのだろう。「やっせんぼう」「引き揚げ」とからかわれた。まるで異国人のように扱った同級生や大人の顔は一生忘れない。
入学して間もなく父がシベリアから帰還した。それから平和な日々が続いたが、父も母も戦争の話題をほとんど口にしなかった。つらく苦しい記憶に触れたくなかったのだろう。
「平和のために学問を修めよ」との父の教えから軍人恩給や母の仕送りで大学を卒業し、24歳で中学校の教員になった。戦争を知らない教え子に当時の経験を語り継ぐため、そして自身の体験の真相を確かめるため、定年退職後も戦争についての勉強に没頭した。
両親が亡くなった後の2016年、実家に残った軍服や勲章を東京の平和祈念展示資料館に寄贈するため、厚生労働省に父の軍歴を証明する資料がないか問い合わせた。数日後届いたのは、父がシベリア抑留中に受けた聴取内容が載った書類の写しだった。ロシア政府から提供された書類を厚労省が保管していた。翻訳された文書には出身地や学歴、軍階級などの個人情報が詳細に記されていた。家族の名前も書かれており、くしくもその資料で確かに4人きょうだいだったことが分かった。父は抑留中どんな拷問を受けたのか、どこまで細かく調べられたのか。ソ連軍の底知れぬ恐ろしさを70年以上たって痛感した。
報道でロシア軍の侵攻を受けるウクライナの様子が流れると、幼少期に見た忘れたい光景と重なり心が苦しくなる。防衛力強化や外交など何が正しいのか分からないが、次の世代に戦争の悲惨さ、平和への思いを伝えることが戦時中を知る私の使命だ。この命続く限り広く語り継いでいく。
(2023年9月7日付紙面掲載)