7000人のハルビン脱出が始まった。最難関は白頭山越え。元気な者は頂上まで歩き、汽車はようやく山越えできた。38度線を越えた3日後には北鮮軍が線路を外したという。危機一髪だった

2023/10/09 10:00
病院部隊約7000人のハルビン脱出の様子を語る有村良男さん
病院部隊約7000人のハルビン脱出の様子を語る有村良男さん
■有村良男さん(89)鹿児島市下荒田4丁目

 早稲田大学を卒業し証券会社に勤務していた一九四〇(昭和十五)年、赤紙召集を受けた。妻を実家の会津若松へ送り届け、父の出身地鹿児島で西部一八部隊の一兵卒に。同年十二月主計下士官要員として選出された。

 四一年七月、郷土部隊として編成された第六二兵站(へいたん)地区隊の一員となり、約五日で到着したのはアカシアの花咲くハルビン。関東軍を八十五万人に増強する「関特演(かんとくえん)(関東軍特種演習)」動員で、所属部隊は満州徳第七〇二三部隊と命名された。十二月八日の日米開戦を聞いたとき「これで帰れなくなった」と思った。台湾生まれの私にとって、零下三〇度以下の極寒も大変だった。

 大連、敦化(とんか)、華旬(かじゅん)などを転々とし、四五年四月、本隊は新京(長春)の関東軍補給部配下となった。私一人、ハルビンの病院部隊満州第七部隊に転居。同病院は部隊長の嘉悦(かえつ)三毅夫軍医中将のもと、患者収容人員約六千人、軍医、衛生兵ら約千人を擁する日本最大のものだった。

 同年八月九日午前二時、病院近くの南満州鉄道新香坊(しんこうぼうぼう)駅操車場に爆弾二発が投下された。ソ連侵攻の開始だ。関東軍の命令、援護部隊もなく、嘉悦部隊長は日本行きを決断。この晩、市内から南に約二十五キロ離れた細菌工場七三一部隊から火の手が上がるのを見た。証拠隠滅を図ったのだろう。

 七千人を四梯団(ていだん)に分け、汽車に乗って転進したが、出発前に移動不可能な人員約百人を空気注射で殺した事実もあったらしい。八月十五日に吉林省通化(つうか)に到着、食料調達のため駐屯部隊炊事場を訪れた。声を上げて泣く炊事兵たちに聞き、日本が敗れたのを知った。

 脱出行の最難関は白頭山越え。規定以上の客貨車を連結していたため、山越え間際になると五キロほど逆戻りする。元気な者が線路伝いに頂上まで二十キロほど歩き、ようやく山越えできた。

 平壌で一日待機したが、危険を察知した嘉悦部隊長が急きょ出発を命令。夜半に三八度線を越えた。北鮮軍が三八度線の線路を外したのは三日後。危機一髪だった。京城(現在のソウル)到着後、主計官として皆の給与を調達する重要な責務が待っていた。機能していた朝鮮銀行と交渉、五百万円を得た。

 二十五日ごろ「明日、米軍が仁川沖に上陸する」という知らせを受け、釜山に急ぎ向かった。武器は釜山港で投棄し、関釜連絡船やヤミ船を雇い山口県仙崎港に到着した。その場で召集兵のみ兵役解除となり、一路家族の待つ会津若松を目指した。駅で待つ妻の横に見慣れない子どもがいた。出征後生まれた娘だった。

 満州に取り残された邦人、開拓団の方々が混乱と悲劇に陥ったのは痛ましい限り。犠牲者の冥福を祈るのみだ。

(2006年9月14日付紙面掲載)

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