岩元勇蔵さん
■岩元勇蔵さん(83)鹿児島市永吉2丁目
一九四三(昭和十八)年一月、旧満州・下城子(かじょうし)の牡丹江(ぼたんこう)重砲兵連隊に入隊した。当時二十一歳。攻撃に備えて落とし穴を掘り、演習に明け暮れる毎日だった。
終戦間近の四五年八月九日朝五時ごろ、ソビエト軍が突如兵舎を襲った。連隊長の出動命令で私たちは「ムーリン」と呼ばれる地区まで大砲を運んだ。そこへソ連軍の戦車隊が押し寄せた。激しい機銃掃射を浴び、軍刀を振りかざす若き士官や、勢いよく飛び出した仲間たちの多くが無残に散った。
それから数日間、わずかな量のザラメと水で命をつなぎソ連軍の襲撃をかわしながら逃げ回った。トラックで牡丹江の北西約四十キロにある横道河子(おうどうかし)駅へと向かった。
駅で待ちかまえていたソ連兵に捕まり、革のベルトや時計など金めのものはすべて取り上げられた。ふと見上げると駅舎には白旗が揚がっていた。そのとき初めて日本が戦争に負けたことに気づいた。この日から地獄のような抑留生活が始まった。
駅近くの馬小屋に二十日間ほど入れられた後、ソ連国境に近い捕虜収容所に連行された。二階建ての丸木小屋には日本人約二百人がいた。
朝八時から夕方五時まで、木の伐採に駆り出された。体に合わない大きなノコギリでの作業は骨が折れた。食料は黒パンやコウリャンの雑炊。ノルマの達成に応じてパンの厚さは変わった。空腹で力が出ず、カタツムリや道ばたの草を空き缶で煮て食べた。
夏はブヨに悩まされ、冬は氷点下二五度を下回る寒さに凍えた。寝具は芝草と毛布一枚きり。まきを燃やすが、すき間だらけの部屋は少しも暖まらず眠れない。寝返りさえ打てない狭い部屋で肩を寄せ合う仲間たちと話すことは、故郷と食べ物のことばかりだった。
それから計七カ所の収容所を転々とし、れんが製造や道路工事など過酷な労働を強いられた。栄養状態は最悪で、目を覚ますと隣で仲間が死んでいることもたびたびだった。
捕虜となり三年後、帰国の命が下りた。五〇キロ近くあった体重は三八キロにまで落ちていた。日の丸がたなびく京都・舞鶴港で三年ぶりに口にした赤飯とまんじゅうの味は、いまだに忘れることができない。
(2006年9月20日付紙面掲載)