「ザーッ」。大雨のような音、目の前は真っ暗になった。不意打ちの爆撃だ。母の頭を破片が貫いた。風邪で寝込んでいた僕は…布団が守ってくれた。

2023/10/30 12:00
当時の写真などを前に戦時中の体験を振り返る牧野泰夫さん
当時の写真などを前に戦時中の体験を振り返る牧野泰夫さん
■牧野泰夫さん(75)鹿児島市鴨池1丁目

 一九四五(昭和二十)年四月八日午前十一時ごろ、鹿児島市の県立第一鹿児島中学校(現鶴丸高)二年生の私は夏風邪をひき、平之町の自宅で夏布団をかぶり寝込んでいた。その日はちょうど日曜日。枕元には父母がいた。

 突然、何の前ぶれもなく大雨が降ったように「ザーッ」という音がして、目の前が真っ暗に。不意打ちの爆撃だ。二十分ほどたち明るくなって状況が分かった。散乱し倒れた家財道具の下敷きになった母の頭に、爆弾の破片が貫通。揺り動かしても反応がない。

 父は頭と腰、肩に破片が入り血だらけ。私はかぶっていた布団のおかげで無傷だった。気を取り直し雨戸を探し出してくぎを打ち付け、タオルをくくりつけた応急担架をつくった。道路にたたきつけられたおびただしい裸の死体を避けながら、父と一緒に母を近くの寺の中にできた救護所へと運んだ。

 母を医者に診せたが「もう駄目」とのことだった。父の手当てをしてもらい、照国神社方面から迫る火の手が心配で家に戻った。隣家と自宅の境の石垣がえぐれるなど、家の周囲に爆弾三発が落ちた跡がある。屋根が瓦ごと一緒に、竜巻にあったかのように隣の家の石壁に載っかっていた。

 今のものより厚みがある木綿の夏布団には、一~一・五センチほどの爆弾の断片が約百個留まり焦げていた。鉄をも貫く破片なだけに、布団の綿の威力に驚き感謝した。

 火の手が燃え広がり迫ってきたが、近所と一緒に延焼のくい止めに動いた。おかげで家財の一部は残った。近所では一軒に一人ずつが亡くなっているような状況。その後、数日間は城山麓の町内会の防空壕(ごう)の中で過ごした。

 六月二十日ごろには、イモ畑となっていた薬師町の一中校庭で草取り中に機銃掃射を浴びたが、プールの中にへばりつき九死に一生を得た。この時の体験が一番怖かった。

 母を亡くしたが戦時中の体験でくそ度胸がつき、父や友達のおかげでその後も希望を持ち生き延びることができた。とにかく悲惨な現実を生む戦争をしてほしくない。

(2006年9月23日付紙面掲載)

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