満州電業の社宅を追い出され収容所へ。終戦から3カ月が過ぎた朝、母は誰にも気付かれず冷たくなっていた。「内地に帰りたい」が口癖だった

2023/11/13 10:00
困窮を極めた満州での戦後を振り返る紙屋清治さん
困窮を極めた満州での戦後を振り返る紙屋清治さん
■紙屋清治さん(75)さつま町時吉

 満州電業に勤めていた父武右衛門の三男として旧満州で生まれ育った。家には電気掃除機もあり、恵まれた暮らしをしていた。終戦を迎えたのは当時の間島(かんとう)省の省都間島市(現在の吉林省延吉市)。間島中学校二年生で十四歳だった。

 終戦一週間前の一九四五(昭和二十)年八月九日早朝、突然の大音響に飛び起きた。「ドスーン」という地震と雷に同時に襲われたような音。ソ連参戦の瞬間だった。近くの変電所が爆撃を受けた。その後、戦闘機も数回飛来したが、本格的に攻撃してくる気配は見せなかった。飛行機が来ても、防空壕に入らず眺めていた。

 恐怖の日が始まったのは、終戦翌日の八月十六日。昼近く、巨大な戦車を先頭にソ連軍が市内に入ってきた。初めて見る異国の兵隊はボロボロの軍服に破れたゲートル。額や手の甲にいれずみが入っている兵士もいた。ソ連兵と一緒になって朝鮮人や満州人が日本人の家に押し入り、略奪、暴行が繰り返された。

 街が少し落ち着きを取り戻したのは一週間後。「ゲビョウ」と呼んでいたソ連軍憲兵が入ってきてからだった。住んでいた満電の社宅の隣には独身寮があったが、そこにはソ連の女性兵士が入居。同じ年ごろで、そのうち仲良くなり、だんご汁やジャガイモを煮ただけの料理を一緒に食べたりした。平和な日が来るのか、とさえ思える日々。しかしそれも長く続かなかった。

 秋になると、ソ連軍は撤退を開始。代わって朝鮮人が保安を担当するようになった。十月中旬、武装した朝鮮人青年五人が突然自宅にやって来て、「一時間以内に家を出ろ」と命令。収容所になっていた旧刑務所に行くしかなかった。収容所とはいえ、食事をはじめ身の回りのことはすべて自分たちでしなければならなかった。「内地に帰りたい」と口ぐせのように言っていた母セイは十一月二十日朝、だれにも気付かれないうち冷たくなっていた。

 食べるために必死な生活が続いた。朝鮮人民義勇軍の使役として火たき番もした。帰りにバケツいっぱいの残りご飯をくれるのがうれしかった。「朝鮮の兵隊になれ」と言われ、怖くなって辞めた。満州人が経営する豆腐屋におからをもらいに行くこともたびたびだった。

 ブローカーまがいのこともした。市場でいり大豆やたばこを手に入れては、捕虜となっていた日本兵に売りに行った。遺体を運ぶため出てきた日本兵に近づき、靴下や手袋などと交換。それを市場で売り、利ざやを稼いだ。あわれな生活だったが、それほどひもじい思いや病気をしなかったのは、いろいろな人に助けられたから、と今では思う。

 引き揚げ船で博多港に着き、両親の出身地薩摩川内市に降り立ったのは四六年の十一月初旬。刈り取ったばかりという新米を食べさせてもらったときは、あまりのうまさに涙が出た。

(2006年10月28日付掲載)

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