満州で終戦。防寒着も食べ物もなく、冬は氷点下40度に。両親は衰弱死した。開拓団龍郷班の仲間も行方知れず。中国人の世話を受け、帰国まで30年かかった

2023/12/25 10:00
満州での辛い体験を語る河島ミチ子さん(左)、吉三郎さん夫妻=奄美市名瀬真名津町
満州での辛い体験を語る河島ミチ子さん(左)、吉三郎さん夫妻=奄美市名瀬真名津町
■河島ミチ子さん(75)奄美市名瀬真名津町

 五月の新聞で、龍郷から満州(中国東北部)に向かった六十四年前の開拓団の集合写真が発見されたことを知った。実物で確認すると、約百八十人の中に幼い自分と両親、五人のきょうだいの姿があった。鹿児島をたつ前日に照国神社で撮ったもの。両親の写真はそれまで一枚も残っていなかった。その後の苦労も思い浮かぶ。懐かしい、悲しい、うれしい。複雑な気持ちだった。

 龍郷班は撮影後、汽車と船で釜山へ。そこから汽車、馬車を乗り継ぎ満州北部の方正県伊漢通に到着した。ここで出身地ごとに複数の班に分かれ、嘉渡出身の私たちは大勝、龍郷(いずれも龍郷町)出身者とともに約二十家族で「裾野郷」に住んだ。大人はそこで野原のような広い土地を開墾した。

 私は当時十一歳。記憶はあいまいだが、日本人学校に通い、草原を走り回るなど無邪気に楽しい日々を送った。満州で二度目の夏が来るまでは。

 一九四五(昭和二十)年八月、ソ連軍が参戦し、終戦を迎えた。詳しい情報を知らされぬまま、汽車に乗れば帰国できると信じ、ほかの日本人とともに着の身着のまま鉄道駅を目指した。

 道は雨でぬかるみ膝まで泥んこ。一週間以上歩いてもたどり着かず、途中でソ連軍に道をふさがれ引き返した。帰り道、季節は移っていた。防寒着はなかった。霜の降りた路上で身を寄せ合い夜を明かしたこともあった。伊漢通に戻っても窓もない、食べ物もない、何もない生活。冬は氷点下四〇度近く。お年寄りから次々亡くなり、両親も衰弱死した。

 そのころ、ソ連国境近くの日本人が集団自殺した話や、深く広い穴が日本人の遺体で埋まり山に変わった話を聞いた。人間の世界とは思えない地獄だと思った。

 同年暮れ「悪いのは軍国主義、日本人は悪くない」と同情してくれた中国人の世話を受け、きょうだいは生活に落ち着きを取り戻した。他の龍郷出身者がどこに行ったのか分からない。

 終戦から六年後、同じく満州に取り残された岡山出身の吉三郎さん(80)と知り合い結婚、二男三女をもうけた。すぐ帰国したかったが、国交断絶などの影響で遅れ、実現は七四年まで三十年近く待たされた。きょうだい五人もその後、相次いで帰国できた。約1000人いたといわれる伊漢通開拓団で、今も連絡が取れるのは十数人しかいない。

 私は今、孫、ひ孫に恵まれ幸せだが、帰国を切望しながら亡くなった方々の無念を知ってほしい。つらい思いは最後にしてほしい。開拓団の写真が、それを伝える手段になってくれればうれしい。

(2007年6月13日付紙面掲載)

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