捕虜生活はシンガポール沖の無人島「レンパン島」。草原に追いやられた犬猫も同然だった。ネズミ、トカゲ…何でも食べた。ひもじさは募り、だれともなく「恋飯島」と呼んだ

2024/01/08 10:00
荒瀬正行さん
荒瀬正行さん
■荒瀬正行さん(84)霧島市霧島田口

 敗戦後、英軍の捕虜になり生死をさまよい、ようやく帰国できたが、鹿児島県内の戦友も昨年ですべて亡くなり、私一人が生き残った。この際どうしても、捕虜の惨めさ、地獄の抑留生活を語り継いでおきたい。

 一九四三(昭和十八)年、二十歳で西部一八部隊に応召。歩兵教育で別世界のしごきを受け、その後、熊本で衛生兵の教育を経て、歩兵第一二三連隊第二中隊に編入。どこに行くとも知らされぬまま馬の臭気が覆う貨物船の船倉に三カ月、着いた所はオーストラリアの北、スンダ列島(現・インドネシア)のスンバワ島だった。

 ここで四四年初めから翌四五年六月まで防衛に当たったが、ついに制空権、制海権ともに米軍の手中となり、退却。夜、小舟で島から島へ渡り、陸地はほとんど行軍を続け、マレー半島を敗走した。クアラルンプールで終戦を迎え、英軍の捕虜となった。

 私たちは思いも寄らぬ事態に混乱を極め、ただただぼう然自失。逃亡や自決も続出した。「死ぬな、生きてくれ」と連隊長が説いて回り、ようやく落ち着いた。戦犯かどうか調べを受け、除外された私たちはシンガポールから沖合の無人島レンパン島に送られた。

 携帯した食糧は二、三日で底を突く。私たちは、草原に追いやられた犬猫も同然だった。食に始まり食に終わる生活。だれからとなく「恋飯(レンパン)島」と呼ぶようになった。栄養失調で文字通り骨と皮だけとなり、脈拍が三十ぐらいしかないと騒ぐ者も出た。足の甲を押すと白くくぼんだまま元に戻らなかった。

 便意を失い、たまにトイレに行っても二、三十分間、力んだ末、ウサギのふんみたいな小さく固まった真っ黒い便が出る。農作業や道路作業の合間にワラビなどを焼いて食べたせいだろう。皆の顔は飢餓のため一様にむくみ、「レンパン浮腫(ふしゅ)」と呼んだ。

 一匹のネズミ、トカゲ、何でも食べた。怖いのは食中毒だった。クラゲや訳の分からぬ木の葉を食べて死んでいった者は数知れない。私たちの中隊でも毒イモを食べて全員が吐き気に襲われ、体中しびれて動けなくなるなど一日中苦しんだ。

 四五年末、英軍兵士の携行食糧が配給される。乾パン、チョコレートやガムなども入っており、そのおいしさに驚いたが、一日一缶だけ。朝で食べきり、ひもじさは変わらず、重労働作業も続いた。

 翌四六年四月二十三日のことは忘れもしない。突如、内地送還の具体案が示されたのだった。みな夢かと思った。そして生きていて良かったと歓喜。涙があふれた。

 首を長くして待った送還船への乗船は六月十四日。約二週間かけて名古屋の港に着いた。身長一五四センチ、体重五四キロだった私は三八キロにやせてしまっていたが、無事日本に帰ってこられたのだ。

 甲板から陸地が見えた瞬間、全員がバンザイ、バンザイと叫んだ。あの時の喜び、安堵(あんど)の気持ちは生涯忘れられない。

(2007年7月27日付紙面掲載)

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