台湾北部の洞窟電信室。沖縄出撃の特攻隊員、最後の打電は「トトツートト」。次第に「ツー」へ変わり、やがて静かになった。「ああ今、敵に突っこんだんだな」。何度も思った。

2024/01/15 10:00
受聴器の代わりに両手を耳にあてる瀬之口正夫さん
受聴器の代わりに両手を耳にあてる瀬之口正夫さん
■瀬之口正夫さん(81)蒲生町上久徳

 一九四一(昭和十六)年七月、私は十五歳で神奈川県横須賀の海軍通信学校に入った。本当は飛行機乗りになりたかった。しかし、母が「一人で死ぬのはかわいそう。船なら一緒に死ねる」と許さなかった。

 その年の十二月の真珠湾攻撃は学校の練兵場で整列して聞いた。翌年三月に繰り上げ卒業となり、台湾の通信隊に配属された。

 通信隊の武器は両耳にあてる受聴器(レシーバー)だ。一分間に百二十の信号を聞き分けなければいけなかった。失敗すれば、軍人精神注入棒で尻がはれ上がるまで殴られた。

 四四年夏、台湾から横須賀に戻り、通信学校高等科を三カ月で繰り上げ卒業。ちょうどレイテ沖海戦があったフィリピンに向けて十月、佐賀を輸送船で出た。米潜水艦の魚雷攻撃にさらされ、輸送船十三隻のうち六隻が満載した陸軍の兵隊と海に沈んだ。

 マニラ港は浅い。海戦で破壊された船の一部は海上に姿を現し、そこに兵隊が洗濯物を干していた。

 いよいよ四五年一月、米軍がフィリピンのルソン島に上陸した。私はマニラの電信室に配属されていた。受信機に向かって座ったいすの後ろに二百五十キロ爆弾が二個、部屋の入り口にも手りゅう弾が置かれた。米軍が来たら応戦しろというのか、それとも爆破して逃げろというのか。確かな説明はなかった。

 フィリピンの司令部は台湾に転進、私も命じられて台湾に移動した。その一週間後、マニラに米軍が侵攻してきた。

 四月になると沖縄に上陸した米軍へ特攻機による攻撃が始まった。私は台湾北部の十八尖山(せんざん)の洞窟(どうくつ)電信室に三交代で詰め、特攻機の無線連絡を受けた。台湾は本土より沖縄に近い。電信室近くの海軍新竹(しんちく)飛行場からも、毎晩のように沖縄に出撃した。

 受聴器に耳を澄ましていると、特攻隊員が「トトツートト」と繰り返し打電してくる。このモールス信号は「と」を意味し、突入の頭文字。トトツートト、トトツートトからツーという音に変わり、すぐ静かになる。ああ今、敵に突っこんだと何度も思った。

 やがて練習機も特攻に使われた。特攻隊員と会う機会はなかったが、敵に突っ込んで死ぬのは覚悟の上、そんな隊員が多かったと思う。死ぬことが当たり前の時代だ。

 終戦まで洞窟電信室に勤め、四六年三月一日に蒲生町の実家に帰った。海軍に入ってからほぼ五年ぶりの実家だった。蒲生から七人が一緒に海軍に入ったが、復員したのは私を含め二人だけだった。

(2007年8月2日付紙面掲載)

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >