〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊦〉米も金もない戦後。食糧増産を狙った干拓事業、誰もが希望に燃えていた。今でもコシヒカリが実る光景を見ると胸が一杯になる

2024/07/15 11:00
大浦干拓を手がけた旧農林省大浦事務所の現場監督ら。左端が川崎大洋さん=1953年ごろ
大浦干拓を手がけた旧農林省大浦事務所の現場監督ら。左端が川崎大洋さん=1953年ごろ
■川崎大洋さん(97)鹿児島県南さつま市大浦町
(海軍航空隊通信兵㊦より)

 愛媛の宇和島航空隊基地での残務整理が終わり、1945(昭和20)年10月ごろ、大浦町(現・南さつま市大浦町)の実家に帰った。兄も生き残り満州から帰ってきていた。お互い死なずによかったと思った。父は早くに亡くなっていたが、母・好子は存命で「よく帰ってきた。親孝行だ」と泣いて喜んだ。母は今の自分と同じ97歳まで生きた。

 戦後すぐは米も金もなく苦労した。からいもあめを作ってもらい、現在の鹿児島駅周辺に兄と売りに行ったこともあった。

 建築士の資格を持っていた兄はその後、鹿児島市内で働き、建設会社を起業し社長を務めた。自分は、市内の建設会社などを経て47年1月、旧農林省に入庁し、地元の大浦干拓事務所に勤めた。

 大浦干拓は戦時中の42年、国が食糧増産のために着手した事業だ。食糧難で当時の唐仁原等・旧笠沙町長が埋め立てて干拓を造りたいと申し立てた。土地が少ないために、干拓で田を造ろうという考えだった。

 戦後は、食糧増産や引き揚げ者の就労対策などとして工事が再開された。誰もが希望に燃えていた。第1工区(174.5ヘクタール)は51年から入植が始まったが、工事が全て完成したのは62年。50年着工の第2工区(161.8ヘクタール)は、65年9月にできあがり、68年から入植となった。

 大浦干拓事務所では、50人近くいる現場監督の一人だった。建築士の資格を持っていたため、事務所や倉庫、寄宿舎、水路など干拓に関わる建造物の設計をし施工監督まで担った。目が回るように忙しかった。

 51年10月、ルース台風の襲来で干拓地は大きな被害を受けた。前年に建てられた入植者用住宅25戸が吹き飛ばされた。同僚と被害調査をし、壊れた事務所や倉庫、官舎などの改修や立て直しを行った。

 妻・妙子(91)と結婚したのは干拓事業に従事していた55年のことだ。その後、3人の子どもを授かった。現在、孫は5人、ひ孫が3人いる。

 大浦干拓の仕事が終わり、その後は長崎に転勤し干拓事業に従事した。働きすぎたためか体を壊してしまい、42歳で退職することになった。地元の大浦に戻り、兄の会社を手伝いつつ、妻の実家がやっていた大浦唯一の文房具店を引き継いだ。9年前に店を閉めるまで続けた。妻も美容室を7年前まで開いていた。

 大浦干拓での戦後の18年間は家族を養い、地元の大浦・笠沙のために死ぬ気で頑張った。大変だったがよくやったと思う。入植者たちも苦労したと思うが、大浦コシヒカリが豊かに実る干拓地を見ると毎年胸がいっぱいになる。

 古里のためにと懸命に働いてきたが、近年、若者が都会に出て行き、過疎高齢化が進んでいる。自然が豊かで空気もいいが、空き家も増えた。終戦後、引き揚げ者らを含め多くの人でにぎわった町の面影はなく、寂しい限りだ。若い世代には干拓を何とか守ってほしいと願っている。

 日本は今、平和でいい。戦争は地獄だ。ところがニュースを見ると今でもウクライナやガザで戦争が続いている。私の青春時代はずっと戦争だった。よく命があったと思う。戦争は駄目だ。戦場にいた人間なら誰でも分かる。あげんこつすっといかんと。

(2024年7月6日付紙面掲載)

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