川崎大洋さんが乗った零式三座水上偵察機と同型機=南さつま市の万世特攻平和祈念館
■川崎大洋さん(97)鹿児島県南さつま市大浦町
(海軍航空隊通信兵㊥より)
1945(昭和20)年5月3日、壊滅的な打撃を受けた大分の宇佐航空隊から愛媛の宇和島航空隊に戻り、さらに香川の詫間航空隊に派遣された。ここで初めて偵察機に乗った。零式三座水上偵察機だ。万世特攻平和祈念館(南さつま市)に展示されているものと同型だ。三座というのは席が三つあるということ。自分の役目は通信だったので一番後ろの席に座った。
詫間航空隊ではもともと水上機の訓練が行われていたが、その後、沖縄戦に備えた飛行艇の一大基地となり、偵察や攻撃に従事していた。45年4月からは特攻隊員も出撃していた。
偵察機の役割は、グラマン戦闘機やB29爆撃機がどこに何機ぐらい飛んでいるといった情報を、モールス信号で味方の掃海艇や各基地に伝えることだった。海に潜水艦が入ってくることもあった。水上300メートルほどの高度を保ち、瀬戸内海の周防灘、伊予灘を巡回した。敵機がやってくるので油断はできない。
あるとき、グラマンが突然現れ空中戦になった。敵は機関銃でバババと狙って撃ってきた。後ろから間近に迫り、弾が顔をかすめていった。恐怖だった。我々は水上機だから機体下部にフロートが付いており、水上10メートルぐらいの高さまで下降し飛べた。ところがグラマンのような大型戦闘機は、30メートル以下までは追ってくることができない。機関銃で応戦しながら水面すれすれを飛び、命がけで逃げた。
真ん中に座っていた隊員はグラマンから火が上がるのを見たと言い、「川崎、あれは落ちたよ」と言った。撃ち落としたかどうか確認はできなかったが、とにかく命拾いした。
いつだったか詳しく覚えていないが、戦艦大和が出航する姿を仲間と一緒に見た。こんなに大きな船を見るのは初めてだった。3000人もの乗員がいたあの船が沈んだと後から知り、とにかく驚いた。
7月15日、宇和島が大空襲を受け航空隊は解体となった。制空権を米国に取られた上に飛行機もなく、飛ぶことができない。愛媛県城辺町(現愛南町)に特別陸戦隊として駐屯することになった。本土防衛をするようにとの指令だった。対戦車のロケット弾を発射する噴進砲隊員として、上陸する米軍を狙う役目だ。だが結局上陸してこなかった。
8月15日。天皇陛下の玉音放送は城辺町で聞いた。戦争に負けたことは理解できたが、何と言われているかはよく分からなかった。駄目だろうということはそれまで何となく感じていた。大きな国に無謀にも小さな日本が立ち向かったのだ。終戦記念日となったこの日は、19回目の誕生日だった。助かったと思った。ほっとした。
基地が破壊され飛行機が飛べなくなったため、同期はほとんどが地上任務となっていた。1年上の先輩の多くは特攻隊員として飛び立っていった。戦争が続いていたら、同期の多くが同じ道をたどっていただろう。自分は通信兵だから最後まで残っていたかもしれないが、どうなっていたか分からない。特攻は残酷だ。威張りくさった上層部が行けと命じる。命を一体どう考えているのか。
その後、命令によって2カ月間、宇和島に帰って残務整理員として働いた。食料などを隊員に配り、残った資金を給料として振り込んだ。鉄砲や弾などは埋めた。早く帰りたいという気持ちもあったが、最後の任務と思い励んだ。
(2024年7月5日付紙面掲載)