〈証言 語り継ぐ戦争~海軍航空隊通信兵㊤〉宇和島での訓練を終え宇佐海軍航空隊へ。先輩の特攻隊員を見送った後、基地はB29の大空襲を受けた。生き埋めになった私は死を覚悟した

2024/07/15 11:00
宇和島海軍航空隊時代の名簿や基地周辺の航空写真を前に戦時を振り返る川崎大洋さん=南さつま市大浦町
宇和島海軍航空隊時代の名簿や基地周辺の航空写真を前に戦時を振り返る川崎大洋さん=南さつま市大浦町
■川崎大洋さん(97)鹿児島県南さつま市大浦町
(海軍航空隊通信兵㊤より)

 終戦間近の1944(昭和19)年、18歳の年に海軍へ入隊し通信兵として偵察機に乗り、任務を遂行した。幾度となく命の危険にさらされたが生き延びた。戦争ばかりの青春だった。戦後は故郷の食糧難を何とかできればとの思いで、国の大浦干拓事業に力を尽くした。

 南さつま市大浦町上之門集落の家に26(大正15)年、4人きょうだいの三男として生まれた。父は外国航路の1等運転士をしていた。大浦尋常高等小学校を経て、4歳上の長兄・盛保と同じ知覧町(現南九州市)の薩南工業学校(現薩南工業高校)建築科に入学した。下宿生活を送り一足早い43年12月に卒業。建築士の免許を取った兄は、南満州鉄道(満鉄)に勤めていた。

 44年6月1日、海軍第14期甲種飛行予科練習生に志願し、愛媛県松山市にあった松山海軍航空隊に入隊した。日本は負け続け本土決戦が近いという話を聞いており、国のために役立てばとの思いもあった。当時の海軍は、航空戦力の増強を図ろうと予科練習生を急激に増やしたが、鹿児島海軍航空隊など既存の航空隊だけでは収容できず、新たに43年に設置した予科練航空隊の一つだった。

 松山では、1等飛行兵としてグライダー滑空や通信術など7~9月の2カ月訓練した。ある日、突風でうまく飛べず墜落した。上官から尻バットでひどくたたかれた。すさまじく痛かったのを思い出す。

 12月には上等飛行兵から飛行兵長となり、通信兵に抜てきされた。通信の成績が良かったからだ。45年3月1日、愛媛県宇和島市にあった宇和島海軍航空隊に転入した。ここは松山空の分遣隊として44年に開かれ、その後独立した予科練航空隊の一つ。自分はその中の8班で同期は計300人ぐらいいた。ここで偵察通信の訓練を受けた。

 訓練を終え4月6日、いよいよ大分県宇佐市の宇佐海軍航空隊へ派遣された。宇佐空は39年に艦上攻撃機と爆撃機の練習航空隊としてつくられたが、戦況悪化で特攻隊の基地となっていた。

 この基地に集まった先輩の特攻隊員たちは鹿屋、出水、国分などへ赴き沖縄へ出撃した。「俺たちもすぐ後に続きますから頑張ってください」と励まし、桜の木を折って渡したり、飛行機に挿してあげたりした。せめてものはなむけだった。米国の軍艦に突撃し相手を倒そうと皆勢いがあったが、淡々としているようにも感じた。

 4月21日、宇佐航空隊基地が米軍のB29爆撃機の大空襲を受けた。防空壕(ごう)に逃げたが、隣りの壕に爆弾が落とされ、自分も生き埋めになった。上から土砂が落ちてきて外からの空気は閉ざされた。運よく三角形の空洞がほんの少しできたため何とか呼吸はできた。

 しばらくすると酸素が切れ始めたのか意識がもうろうとなった。ふわっとした感覚になり、もうおしまいだと覚悟した。すると誰かが掘り出してくれた。隣にいた人は最初は足を動かしていたが、いつしか亡くなっていた。壕に避難していた練習生15人が直撃弾で即死し、この日だけで計約320人が亡くなったと聞く。それはもう怖かった。

 宇佐航空隊基地は壊滅的にやられ、多くの人が亡くなった。5月に宇佐航空隊は解体された。再び宇和島航空隊へ転隊となり、さらに香川の託間航空隊に派遣された。7月15日まで滞在したが、この地で米軍のグラマン戦闘機に追われ、命がけで逃げることになる。

(2024年7月4日付紙面掲載)

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