同じ日に同じ理由で17人死亡…寺の過去帳で気付いた戦時の悲劇 町誌にも詳しい記載がない世界自然遺産の島の「記録なき空襲」全貌解明へ、体験者の証言求め住職ら奔走

2024/08/14 07:00
米軍機が撮影した一湊の空襲写真。1945年4月24日とみられる(出典National Archives、眞邉一近特任教授提供)
米軍機が撮影した一湊の空襲写真。1945年4月24日とみられる(出典National Archives、眞邉一近特任教授提供)
 鹿児島県屋久島町一湊で、太平洋戦争時の空襲被害の掘り起こしが進められている。地元の願船寺が保管する「過去帳」に被害者の名前があったのがきっかけ。住職が中心となって体験者の証言を集め、旧上屋久町の郷土誌にも載っていない戦時の悲劇の全貌を探っている。

 死者の没年月日や享年、戒名などを記した過去帳。1945(昭和20)年4月18日に「米機空襲被害者」として17人の名があった。住職の佐藤明了さん(61)が1年ほど前に気付いた。「同じ日に同じ理由で多くの人が亡くなったことを知り、何が起きたかを調べようと思った」という。

 旧上屋久町に空襲被害の資料は残されておらず、町誌には「詳しく触れることができない」との一文が載る。佐藤さんは健在の体験者を探し、地道に証言を集めるしかなかった。

 一方で、心強い協力者も現れた。一湊出身で、日本大学の眞邉一近特任教授(68)=心理学=だ。本紙が昨秋、一湊沖に沈む旧日本軍機の残骸の話題を掲載。眞邉さんは記事を見て屋久島の空襲被害を調べ始めた。米国立公文書館などから米軍の空襲記録を入手し、一湊では4月中旬から下旬にかけて集中的に空襲があったことを突き止めた。

 旧上屋久、屋久町の町誌では、屋久島への空襲は45年3月下旬に始まったとされる。1000メートル級の高峰がそびえるだけに、眞邉さんは「米軍機にはいい目印で、本土空襲のための集合地点に使い、残った弾薬などを撃ち込んだ可能性がある」と指摘する。特に一湊は測候所があり、目の前を流れる川沿いにはさば節工場が並んでいた。「軍事関係の拠点と考え、狙ったのではないか」とみる。

 証言や資料が集まった今年4月、願船寺で初めて慰霊祭が開かれた。地元住民約50人が参列。空襲犠牲者を含め、過去帳に記された100人を超える一湊ゆかりの戦没者をしのんだ。佐藤さんは「風化させてはいけない歴史。まとめた資料は今後、寺で展示できるようにしたい」と話している。

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