1945年春、積兵団の兵士と記念撮影する4歳の澤俊文さん(前列中央)と幼なじみの桑原和子さん(同右)=澤さん提供
■澤俊文さん(83)鹿児島県曽於市大隅町岩川
1913(大正2)年に川辺村(現南九州市川辺)から岩川村(現曽於市大隅町岩川)に移り住み、大隅半島で初めてとなる写真館を始めた父・澤貫一と、母・カスミの間の一人息子として40(昭和15)年10月に生まれた。末吉高等女学校4年生のいとこ・二木雪子と父の弟子、お手伝いさんの6人で暮らしていた。太平洋戦争末期の45年、私はまだ4歳だった。
岩川に写真館は1軒しかなかった。現代と違い、カメラを持っている家庭などほとんどなかったから、一般庶民にとって写真を撮るのは特別で、ちょっとしたぜいたくだった。だがこの頃になると、軍や軍人に関連した撮影が非常に多くなっていた。
国鉄志布志線(都城-志布志)の岩川駅間近にあった洋風の写真館には、召集令状が来て、軍への入隊が決まった青壮年男性が、撮影待ちの長い列を作った。家に残していく写真を撮るためだが、戦死した場合は、そのまま遺影になった。引き伸ばし機はまだなかったから、両親が苦労しながら、小さな原板から、遺影用の大きな写真を複製していたことを覚えている。
45年春になると、写真館には本物の軍人が出入りするようになった。写真館隣の桑原病院の離れには、福岡県久留米市で編成された陸軍86師団積兵団の兵士が寝泊まりしていた。写真館には私と兵士たちを父が撮った写真が残る。
同兵団の若い士官は「東北大学を2年で辞めて、軍に入った」と話していた。学徒動員組だったのだろう。
そのうち、航空服に身を包んだ兵士も現れた。八合原台地の岩川海軍航空基地に5月中旬、鹿屋から移ってきた夜間攻撃専門の航空隊、芙蓉(ふよう)部隊の隊員たちだった。
父母は写真を撮るだけでなく、隊員の実家まで送ってあげていた。
若い隊員たちは、コンペイトーや赤飯の缶詰などお土産に持ってきてくれた。私は胸から提げた航空時計を触らせてもらったり、肩車してもらったりした。
隊員は私を肩車したまま写真館から、近くの岩川駅の駅員宿舎に向かうと、「お姉ちゃんを呼び出して」と促した。駅員は徴兵された男に代わって、若い女性が務めていた。私は幼児ながら、若い男女の出会いを取り持っていたわけだ。
ある晩、寝ていたところを父に起こされたことがあった。「芙蓉部隊のお兄ちゃんたちが今から沖縄攻撃に行く。無事な生還を祈ろう」。離陸して上空を飛んでいく攻撃機のエンジン音に、父とともに耳を澄ませたことを覚えている。
父は夜になると、自転車に乗って、志布志線沿線にあった芙蓉部隊の宿舎に向かうことがあった。航空隊が持っていた写真原板をひそかに分けてもらっていたらしい。鹿児島県写真師会の曽於支部長を務めていた父にとって、民間供給が滞っていた原板を、支部員のために確保するのも大きな役割だった。
先に述べた遺影については後日談がある。戦後、物資不足で遺影を入れる額のガラスがないため、写真館で無事だった窓ガラスを取り外し、近くの指物師に、ガラスの大きさに合わせた額を作ってもらっていた。でも、戦死者の数が多すぎて、とても需要を満たせなかった。
(2024年8月15日付紙面掲載「写真館の一人息子㊤」より)