「僕らはこれから飛び立つ。君たちは頑張ってくれ」。特攻機の中継基地・浅間飛行場で、少年志願兵の私は励まされた。何とも言えない切なさだった【証言 語り継ぐ戦争】

2024/08/25 07:00
機関銃の掃射で傷めた左手の傷を見せる牧道重さん=鹿児島市西陵6丁目
機関銃の掃射で傷めた左手の傷を見せる牧道重さん=鹿児島市西陵6丁目
■牧道重さん(93)鹿児島市西陵6丁目

 旧制大島中学校(現大島高校)2年だった1945(昭和20)年2月、少年志願兵として召集され陸軍に入った。

 進学できないのではないかという不安は感じていた。1月に軍事教練の時間が増え、内容も兵隊訓練になったからだ。軍事教練が増えた分、英語の時間が減り、不満を持った上級生が校長に直談判しに行ったが、校内には配属将校や下士官らが目を光らせていて、騒ぎはすぐに抑え込まれた。

 将校らは、陸軍士官学校や海軍兵学校に送り込む生徒を吟味しているのだろうと思っていた。だが2月になり、150人の中から、いつの間にか40人が選抜されて学徒志願するよう促された。

 本当は戦争に行くのは嫌だった。母も強く反対した。だが当時は拒否できなかった。全員が「行きます」と答え、志願兵として扱われた。

 配属先は徳之島の通信部隊暗号班。まず学校で1カ月間、通信技術の特訓を受けた。20人は古仁屋の海軍へ、私たち20人は古仁屋から夜中に上陸用舟艇で徳之島へ渡った。すでに海も空も米軍の攻撃にさらされていて大変な警戒の中、死ぬ覚悟で向かった。

 徳之島には陸軍の浅間飛行場が築かれ、奄美守備隊として独立混成第64旅団が配置されていた。旅団長は鹿児島市出身の高田利貞少将。「中学半ばでよく来てくれた」と馬から下りて一人ずつ握手して励ましてくれた。軍服や短剣もちゃんと準備されていた。

 トップが人格者だったからか、鉄拳制裁を受けた記憶はない。とはいえ軍隊生活は厳しくつらかった。中学生も大人と同じ扱い。広島師団から来た人たちと兵舎で生活した。食料が不足し、ひもじかった。食事を配る当番のときは上官が食べなかった分を食べられるのが楽しみだった。

 浅間飛行場は、沖縄へ向かう特攻機の中継基地だった。米軍の空襲が激しく、守備隊がその都度滑走路を補修した。

 通信部隊は、司令部の近くにあったので高田少将にあいさつに来る特攻兵の人たちとも会った。「僕らはこれから飛び立つが、君たちは通信部隊として頑張ってくれ」と励まされ、何とも言えない切なさを感じた。特攻機が敵艦に突っ込んでいく様子は島からも火花が見えた。「すごいな」「偉いな」とみんなで称賛していた。

 米軍の捕虜と話したこともある。不時着した米兵2人はちゃんとした扱いを受け、平然としていた。食欲旺盛で私たちたちと同じように雑炊のようなものを食べた。島には「朝鮮P」と呼ばれる女の人たちもいた。慰安婦だったのだろうが、自分はまだ子どもでよく分からなかった。

 戦争が終わって名瀬に帰ると、街が焼き尽くされていた。みんな山手に疎開していて、そこで家族に会えた。

 9月に復学したが、米国の信託統治下では、本土への進学が許されなかった。沖縄外国語学校(現琉球大学)を受験し、卒業後も沖縄民政府で働いた。奄美の本土復帰を機に、沖縄から戻って高校教員になり、本土で教員免許を取り直した。

 戦後は平和でありがたい時代を過ごした。中学校で何度か戦争体験を語ったが、生徒は戦争に行くことが信じられないようだった。今また緊張が高まっている。国防意識は必要だが、戦争は絶対にしてはいけない。外交で回避しなければならない。

(2024年8月17日付紙面掲載)

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