浜の丸石を積み上げて築いた「青久の防波壁」と森山キミ子さん(左)、重敏さん親子=奄美市住用町市の青久集落
昭和が続いているとすると、2025年は「昭和100年」に当たる。人とのつながりが密で、ものを大切にしていたあの頃。平成、令和にかけて、ふるさと鹿児島で今なお愛される建造物や老舗を探した。
◇
奄美大島南東部の険しい山道を抜けると視界が開け、丸い石を積み上げた長い石垣が飛び込んできた。奄美市住用町市の青久集落の「青久の防波壁」だ。その先には太平洋が広がる。
サツマイモなどを栽培し、魚を捕る自給自足の生活を送ってきた住民は長年、高潮被害に悩まされてきた。戦後の米軍占領統治下、琉球政府に防波壁の建設を要望。同政府直轄の公共事業に採択され、1950(昭和25)年から工事が始まった。53年の日本復帰後は奄美群島復興事業として引き継がれ、55年3月に完成した。
上面最大1.8メートル、底面同3.7メートル、高さ同2.8メートルの台形状。総延長278メートルでU字形に集落を囲む。浜で採った石を積み、セメントを詰めて固めた。全て人力で築き、住民ら延べ約8180人が従事したとされる。上面の平らな部分を「天場(テンバ)」と呼び、いつしか地元で防波壁全体を指すようになった。
今も往時の姿を伝え、集落を守る。生まれてからずっとここで暮らす森山キミ子さん(94)も石を集めた。「できた時はうれしかった」と振り返る。戦中から戦後間もない頃に23世帯76人いた集落は森山さん1人になった。「昔は十五夜に相撲を取ったり、踊ったりした。とても寂しい」
長男の重敏さん(70)=同町西仲間=は週5、6回、母親の元に通う。「住民の命を救ったテンバには先人の魂が込められている」と力を込める。いずれ実家に戻ることも検討しているという。
〈企画連載「昭和100年ふるさとのレトロ」〉=おわり=