桜 島(風景・出来事)

昭和30年10月16日午後0時44分、活動期に入っている桜島南岳が5回目の大量噴煙を吹きあげた。紙面では「鹿児島地方気象台の観測によると黒色の噴煙は南岳から2500メートルの上空へ舞いあがり、最大振幅35ミクロンの地震があった。上層は北よりの風が吹いているため、火山灰はまたも大隅半島一帯に降灰した」と報じている。

昭和31年11月21日、でき上がった湯之観測所。紙面では「東大地震研究所の水上教授は地震計4台の設置にあたっていたが、南岳下引平、有村上六合目、湯之上八合目、同上800メートルの4カ所に設置を終わった。この4地震計は、地震をキャッチすると、電流に乗って湯之にある観測所にその記録が自動的に送られる。観測所では、昼夜兼行で、記録して資料として分析する」と報じている。

昭和32年8月7日午後0時50分、桜島の一周避難道路開通と同時にバンザイを叫ぶ陸上自衛隊の作業隊員。紙面では「開削工事は休みなしの突貫作業によって予定より3日早く仕上げたもの。桜島の一周道路は火山活動に対処して島民の人命救助を目的に建設されたものだが、これで東西両桜島の島民1万3000人の生活は心配なくなったわけで、地元民たちは自衛隊に感謝の言葉をおくっている」と報じている。

昭和35年1月19日、噴石で山火事を起こした桜島。紙面では「午後4時23分の爆発では3500メートルまで噴煙をあげ、火山弾をふくんだ赤熱噴石は引之平から古里付近の2合目あたりまで落下し、山火事を起こした。火山雷も数回記録され、鹿児島市内でも窓ガラスにひびくほどだった。爆発の規模からすると30年10月13日の大爆発いらい5番目。噴石は4キロは飛んでいると推定されその距離からすると30年の爆発につぐもの」と報じている。

昭和35年1月20日、黒神町で屋根の灰をおとすこどもたち。紙面では「桜島は20日朝になっても爆発をつづけ、麓の人たちは無気味な鳴動に不安な顔で山を見上げていた。桜島黒神町塩屋ケ元部落は、雪国のように一面灰をかぶり、樹木はへし折れて爆発のツメあとを残している。対岸の隼人からは、噴石がまっ赤になって、黒神方面へ流れるのが見えたという」と報じている

昭和35年4月、桜島袴腰で地震観測をつづける京大桜島防災研究所の教官。紙面では「無気味な地鳴りと異常な噴石をふきあげる桜島の南岳に、科学のメスを加えている京大防災研究所は、現在の観測器材と観測位置では不十分だとの結論を打ちだし、新たに南岳に近い3カ所に、倍率の高い地震計と検潮儀1つを増設することになった」と報じている。

昭和35年5月、鹿児島市のいづろ通りで雨まじりの降灰でフロシキをスッポリかぶって歩く子ども。紙面では「桜島南岳は24日午前中も、断続的に5回噴煙をあげた。第1回目は午前4時49分に小爆発。7時6分に2回目の爆発。つづいて7時16分、10時40分、11時15分にも連続的に爆発。早朝からの連続噴煙は東北東の風にながされ、鹿児島の街から吉野方面一帯は相当量の降灰があった」と報じている。

昭和35年7月16日、4900メートルも上がった桜島の噴煙。紙面では「このところ活発な活動を続ける桜島は、16日夕方も爆発、観測を始めてから最高の4900メートルの噴煙を吹き上げた。これまでの最高は3900メートル。そのため同日午後9時半から鹿児島市内にはかなりの量の灰が降りはじめ、道路はマッしろ。ハンカチで顔をおおいながら歩く人の姿が目立った」と報じている。

昭和36年11月8日午後3時20分、噴煙をあげた桜島の南岳。紙面では「桜島の南岳は8日連続爆発した。午前3時45分、地震32ミクロン、空振0.73ミリバールの小爆発。午後3時20分、地震54ミクロン、空振1.6ミリバールで噴煙を1500メートルの高さにあげた。6合目付近まで噴石が落ち、音が大きく、鹿児島市内では窓ガラスが揺れた」と報じている。

昭和37年10月30日、開所した京都大学の桜島火山観測所。紙面では「開所式は30日午前10時から同観測所前庭で行われ関係者約70人が出席。同観測所は4月、西桜島村赤生原揚ヶ谷のハルタ山山頂(南岳火口から北西約2.8キロ、麓から約2キロ)に総工費約3000万円で完成。総建て坪は249平方メートル、鉄筋2階建ての所内に各観測機械がそろい3点観測(引之平、北岳、小池)ができる」と報じている。

昭和37年12月10日午後3時11分、3000メートルまで上がった噴煙。紙面では「桜島南岳はこのところ第12活動期に入って以来、最強の活動を続けている。10日は1日5回も地震をともなった爆発を続け、多量の降灰、噴石、噴煙を上げた。京大の桜島火山研究所の地震計は連続微動を記録するほか、終日黒煙を上げ市民の関心を集めた」と報じている。

昭和38年9月、鹿児島市の山下小前で新聞紙を頭にかぶって登校する生徒。紙面では「8日夜から鹿児島市に降り続いている桜島の灰に、市民は『またか』とウンザリ。家の中や洗たく物は真っ黒。庭の草花も元気がない。また『赤ん坊の目が赤くなった。単車に乗ったら、目が痛む…』など保健所への問い合わせがふえた。軽い結膜炎や結膜異物症を起こして病院の門をくぐる人もいる」と報じている。

昭和38年、完成した鹿大桜島火山観測所。紙面では「10月18日午前11時、開所式が鹿児島市東桜島町有村の現地で行われ、学長をはじめ、鹿児島市、西桜島村の関係者ら約50人が参加した。同観測所はことし3月に完成し、すでに観測を開始しており、気象庁、京大防災研究所とともに爆発予知に威力を発揮することになる」と報じている。

昭和38年、完成した鹿大桜島火山観測所の内部。紙面では「観測所はコンクリートづくりで、約33平方メートルの小ぢんまりとしたもの。石本式地震計、電磁式地震計のほか、わが国でも珍しいプロトン・マグネット・メーター(磁力計)を備えつけている。観測室と器具室とに分けられているが、雑震を防ぐため地下8メートルまでコンクリートを打ち込んである」と報じている。

昭和38年、鹿児島郡西桜島村が国鉄から買い入れた宇野-高松連絡船“第二宇高丸”を広島県御調郡向東町の日立造船向島工場で3400万円をかけて改造した“第二桜島丸”。長さ45.75メートル、幅10.6メートル、総トン数438.48トン、速力9.84ノット。乗客340人と同時に60人乗りバス8台を運ぶ能力がある。紙面では「3月3日から桜島から鹿児島-桜島袴腰間定期連絡船として就航する」と報じている。

昭和39年8月からの改修工事を前に、観光客と自動車でごったがえす桜島桟橋(鹿児島側)。この桟橋の年間利用状況は乗降客だけで300万人、車が16万台。1日平均8500人で多い日は1万人、660台を越しており、年々急増の一途をたどっている。しかし待合所がなく、30メートル離れた切符売り場から歩かなければならなかった。また岸壁では人と車で混雑、県外観光客の不評をかっていた。

昭和39年、西桜島村が日立向島造船所でつくった“第八桜島丸”。10月8日朝、袴腰桟橋に回航された。紙面では「時速12ノットで、僚船より船足は早く、船内には化粧室、売店を備えた。510人乗り、大型自動車10台を積む。工費1億3000万円。西桜島航路に就航、10月17日から運行する」と報じている。

昭和40年11月、急ピッチで進められている待ち合い所と可動橋をつなぐ乗降デッキの取り付け工事。紙面では「年内完成が危ぶまれていた桜島桟橋の待ち合い所・乗降デッキ建設工事がようやく軌道にのり、12月10日ごろ完工、利用できる見通しがついた。近日中に滑川上方から同待ち合い所へ通ずる陸橋工事にかかる」と報じている。

昭和40年12月、ほぼ完成した白ペンキ塗りのモダンな鹿児島港の桜島桟橋待ち合い所。観光鹿児島の象徴・桜島に気持ちよく渡ってもらおうと鹿児島県が鹿児島市、西桜島村と共同で39年末から総工費4900万円で建設。1階を車道に、2階を待ち合い所にし、乗客は渡線橋から待ち合い所にはいり、車とは別に乗降デッキから船まで渡れるように設計された。

昭和40年12月18日、完成した桜島桟橋待ち合い所で、渡りぞめ式が行われた。鹿児島市側陸橋から谷山市中町の武内さん夫妻ら、海岸側可動橋側から西桜島村赤尾原の赤尾さん夫妻ら3代2組が、寺園鹿児島県知事、有村西桜島村長のテープカットで両方から渡りはじめ、中央の待ち合い所で合流、握手した。

昭和41年1月、鹿児島港桜島桟橋の待ち合い室2階から船に通ずる人道橋。紙面では「近代的な待ち合い所が開所してから20日間、“きれいな待ち合い所”と乗客の人気をよんでいる。開所早々は利用者が少なかったが、正月にはいり、利用客は急上昇、とくに3日には正月期間中としては初めての6000人台を記録。このため2階の待ち合い所は船待ちの人で埋ずまった」と報じている。

昭和41年、西桜島航路5隻目のフェリーボート「第一桜島丸」が完成し、5月2日袴腰港で就航祝賀会があった。紙面では「西桜島村が1億4500万円で昨年11月から日立造船向島工場で建設していたもの。全長49メートル、幅12.4メートル、470トンの大型船で、510人の客と大型バス10台を積める。客室はテレビ、売店つきのデラックス船。速さもこれまでのフェリーボートの中で一番早く、20分たらずで鹿児島港-袴腰港を結ぶ」と報じている。

昭和41年6月、盛んに有色噴煙をあげる桜島のB火口(向う側のがけ目、手前の円形はA火口)。紙面では「ことしに入って鳴りをひそめていた桜島が、ここ2週間、有色の連続噴煙をあげ、無気味な動きをみせはじめ、12、3日と多量の灰を鹿児島、谷山市内に降らせた。松代地震についで13日夕には気象庁が吾妻山(福島県)爆発の恐れを警告したやさきであり、桜島の動きが注目される」と報じている。

昭和42年5月28日、桜島南岳A火口にせりあがってきた溶岩。これが火口をふさぐと大きな爆発をおこす(10管機から撮影)。紙面では「桜島の南岳には予想されたとおり溶岩がせり上がっていることが28日の飛行機観測の結果わかった。溶岩はA火口の上部にぐっとせり出しており、数日後、火口をふさいだ部分をふきとばして、かなり大きな爆発をおこすおそれがあると鹿児島地方気象台は警告している」と報じている。

昭和42年5月31日、1600メートルの高さに噴煙を上げた桜島(午前9時18分撮影)。紙面では「桜島南岳は31日午前9時12分、噴煙を高さ1600メートルまでふき上げた。灰は南東の風にのって流れ、鹿児島市北部にかなりの降灰があった。しかし爆発音、地震はなく噴煙だけ」と報じている。

昭和42年6月8日、桜島の降灰に目もあけられぬ鹿児島市内。紙面では「爆発とともに多量の灰が、桜島の西側地区、とくに鹿児島市周辺から伊集院地区にかけて降った。鹿児島市の市街地では、一時、町が茶色にかすみ、通行人は目もあけられないほど。婦人はカサをさしたり頭をおおったり、また目に灰が入って泣き出す子もいた。灰は電車やバスの窓ガラスのすき間からも飛び込み、またビルのなかもざらざら。」と報じている。

昭和42年6月14日、2900メートルまで噴煙を上げた桜島。紙面では「鹿児島地方気象台桜島火山観測所では47ミクロンの地震と鳴動を20秒間観測、赤く焼けた噴石が5合目までとんで数カ所で山火事を起こし1時間燃えつづけた。火口から南側へ3.3キロ離れた古里温泉では空振で窓ガラスが割れ、しょうじのはずれた家もあった。爆発はことし39回目」と報じている。

昭和42年10月、一日中、水をまきっぱなしの鹿児島市の騎射場商店街。紙面では「桜島爆発の降灰で、鹿児島市街地の南部一帯が、9月30日から3日間も連続“灰かぐら”に見舞われた。2日朝も南岳がまた爆発、北東の風にあおられた灰はホコリとなって降りつづいている。視界のきかない車、ノドをやられて幼稚園を休む子、洗たくができない主婦、痛んだ盆栽の手入れに追われる老人…町ではてんやわんやの降灰騒動が繰り広げられている」と報じている。

昭和42年11月、尾根を流れ落ちる赤い噴石(13日午後11時9分本社屋上で写す)。紙面では「活動が再び活発化した桜島の南岳は13日午後11時8分、大きな爆発音をともなって爆発、驚いて寝巻き姿のまま外に飛び出す市民もいた。噴石が3合目まで流れ落ち、7分間にわたり20カ所で山火事が起こった。噴煙の高さや降灰の状況は観測できなかったが、ゴー、ゴーという無気味な鳴動が約40秒間つづき桜島地区民を不安がらせた」と報じている。

昭和42年11月、桜島南岳A火口にせり上がった溶岩(10管ビーチクラフト機から13日午後1時30分、高度6000フィートから撮影)。紙面では「桜島南岳は11日午後から12日いっぱい火山性地震が続発、溶岩のせり上がりが予想されていた。13日午前、第10管区海上保安本部の飛行機観測によると、桜島南岳A火口内に約40万トンの溶岩がみられた。桜島がこのように多量の溶岩を押し上げたのは、ことしになって4回目」と報じている。

昭和42年11月18日午前11時、鹿児島市下荒田町、顔をおおう市民。紙面では「鹿児島市内各地は17日夜から18日にかけて、大量の桜島降灰に襲われた。霧状の灰は、東風にあおられて市内をすっぽり包み、電車を止め、交通事故を引き起こすほどの猛威。市民は絶え間なくつづく“空襲”にイライラした1日を送った」と報じている。

昭和43年2月9日午後6時37分、山火事を起こした桜島の爆発。紙面では「桜島南岳は大きな音を伴ってことし初めての爆発を起こし、噴煙を1900メートルまでふき上げた。多量の噴石が4合目付近までとび、山腹の10カ所で山火事が発生、赤々と24分間燃え続けた。大きな空振のため対岸の鹿児島市でも鉄筋のビルがふるえ、驚いて外にとび出す人もいた」と報じている。

昭和43年5月25日、鹿児島市役所前、町並みがかすむほどの灰をかさや紙切れでよける人たち。紙面では「まるで砂ばくのあらしのよう、先が見えないほど。婦人たちは日がさをさして灰を防ごうとしたが、風にあおられて舞い上がるので効果なくすっかり灰まみれ。子供たちは悲鳴をあげて近くの建て物に避難、単車乗りは目があけられず運転ストップ、四輪車もノロノロ運転と、大きな火ばちをさかさにしたような騒ぎだった」と報じている。

昭和43年5月29日、国道にころがり落ち側こうで止まった溶岩。紙面では「桜島南岳の活動が急に活発になり、29日早朝、桜島の活動が原因とするとみられる地震がひん発、現地桜島では人体に感ずる地震が十数回あった。桜島の活動を原因とする有感地震は珍しい現象。鹿児島地方気象台では野間岬沖を震源とする地震と桜島の地下活動が原因の地震が同時に起こったとみている」と報じている。

昭和43年5月31日午前10時ごろの火口、中央がA火口で灰に深くおおわれている。右下黒い部分はB火口(手前が鹿児島市側)。紙面では「鹿児島地方気象台は火口の状態を知るため、10管機に依頼して写真をとり、くわしく調べたが、溶岩はまだ火口に上がっていないことわかった。現在活動しているA火口はかなりの量の灰で広く深くおおわれているという」と報じている。

昭和43年6月4日午後2時55分、鹿児島市朝日通からの爆発した桜島。紙面では「最近にない大きな爆発を起こしたが、さいわい人畜に被害はなかった。しかし人頭大の赤熱噴石が山上を飛びかい、有村地区では4合目付近まで落石、5カ所で山火事が起こったのを確認。また、黒神町では爆発でタナのビンがくずれ落ち、戸外に飛び出す地区民が多かった。さらに黒神、有村付近一帯に落ちた噴石の砂じんが垂水市役所の屋上からもはっきり認められた」と報じている。

昭和43年6月8日、鹿児島市吉野町で地震計のテストをする気象庁機動観測班員。紙面では「桜島の重点観測のため鹿児島地方気象台吉野分室の敷地に最高1万倍の性能の地震計を設置、およそ80メートル離れた倉庫の中に記録装置を取り付けた。西桜島村白浜、垂水市海潟にも地震計設置をすませて、11日から本格的な観測にかかる。桜島内にある鹿児島地方気象台の3カ所の観測点の記録も合わせて分析検討、桜島地下活動を見守る。観測期間は1カ月の予定」と報じている。

昭和43年11月22日午前11時50分、大きく落ち込んで広がった桜島南岳のB火口(手前)。紙面では「桜島南岳は10月中旬の爆発以来、無気味な沈黙を続けているが、本社機は桜島上空を飛んでB火口壁が大きくくずれ落ちているのを確認した。B火口は大きくなりつつあるが、将来A、B火口がつながって1つの火口になる段階にはいっているようだ」と報じている。

昭和44年、改築工事を始める前の桜島袴腰港待ち合い所。紙面では「現在の待ち合い所は、戦前からの木造建築で、改造を重ねてきたが、狭くて観光客をさばききれないありさま。総合ターミナルの完成を待ってこれまでの待ち合い所をとり払い、団体客専用の貸し切りバスの発着場に利用する。さらに、園地をつくり、桜島に多いアコウノ木などを植え込んで南国ムードを盛りあげ、バスを待つ観光客のいこいの場にしたいという」と報じている。

西桜島村営のフェリー「第三桜島丸」が昭和44年10月5日から袴腰-鹿児島間に就航、それに先立ち同船内で関係者約500人が出席して祝賀会を開いた。「第三桜島丸」は全長49メートル、幅12.4メートルで485トン。510人の客と車は大型バスに換算して10台積める。同航路で6隻目のフェリー。

昭和46年3月7日、西桜島村営の鹿児島-袴腰港フェリー可動橋のかけ替え工事が完成、鹿児島市側と西桜島村でそれぞれ開通式があった。紙面では「これまであった14トン型では車両の大型化、重量化に対応できなくなったため、25トン型可動橋を鹿児島港、袴腰港双方にかけ替えるよう林兼造船長崎造船所に依頼していた。新可動橋には車のスリップ防止のため車道部分がカズノコ式になっているのが特徴。これで両港とも3基ずつの可動橋施設が整った」と報じている。

昭和46年、潮干狩り客でにぎわう西桜島村・神瀬。紙面では「錦江湾に浮かぶ神瀬で、4月23日からアサリ貝の潮干狩り会が始まり、同日は約200人が訪れ、照りつける太陽の下で“初夏”を満喫した。神瀬のアサリ貝は、西桜島漁業協同組合が、昨年11月、有明産の稚貝約60俵を熊本県から取り寄せ、放流していた。神瀬は桜島袴腰から船で約15分。周囲約2キロの小島。一面砂でおおわれ、生息条件ががよく、もともとアサリ貝が自生している」と報じている

昭和47年10月21日、桜島フェリーの新造船“第十桜島丸”がお目見え、西桜島村袴腰港で祝賀式が行われた。全長53メートル、幅12メートル。内部は3階にわかれており1階に大型バス10台、2階に小型自動車30台、3階に乗客628人を収容でき、従来のフェリーの約2倍の積載能力を持っている。祝賀会には関係者約500人が出席、神事のあと同船内でレセプションを開き、湾内遊覧などで誕生を祝した。

昭和48年9月、20年間値上げなしでがんばる桜島町営フェリー。紙面では「昭和29年6月から大人30円、子供15円。定期乗船券の月額運賃も通勤600円、通学300円のまま一度も上がっていない。もともと桜島町が昭和9年、渡船事業を開設したのも“子弟を鹿児島市の学校に通わせたい”町民の願いを受けてのこと。それに、買い物や勤め先をさがすにも鹿児島市-と、生活圏を鹿児島市内に求める“島の宿命”もあった」と報じている。

昭和49年5月、桜島の畑に植えられた“ツガ”。「降灰被害に遭ったミカンに代わり畑の所々に植えてあるが、風でビニールが吹き飛び、灰をかぶり、だめになってしまう」と紙面は伝えている。

昭和49年5月、3年連続の降灰に見舞われる桜島の畑。紙面は「島民は山の活動と同時に、農業への見通しが全くたたない。降灰のない年の5、6月は手入れのため人と車でにぎわう畑だが、今は人影のない畑に無情な灰が降る」と報じている。

昭和49年5月、教室の中まで灰ぼこりするため、マスクをかけて掃除をする桜洲小(旧桜島町)の児童。当時の紙面は「昭和47年9月から活動を始めた桜島は前例のない長期活動。同小では降灰による体への影響も心配され始め、洗顔設備の設置を町に要請した」と伝えている。

昭和49年7月、降灰で真っ暗になった鹿児島市上空。紙面によると「21日夜から23日にかけて桜島が活発な活動を開始。これに伴って桜島南部、鹿児島市街地南部に大量の灰を降らせた。除灰車、グレーダーと合わせて3台で除灰作業に当たったが、除いても除いても降りつもる灰に、運転手たちもがっかりした表情」と当時の様子を伝えている。

昭和49年6月、連続的に噴煙を上げる桜島。当時の紙面は「活発な活動を続けている桜島は、5月に観測始まって以来最高の月間地震回数と日間地震回数を記録。6月に入ってからも活動は衰えず、桜島町(現鹿児島市)で溶岩上昇を示す鳴動が聞こえたり、爆発の空気振動を人吉市で感じるなど、異常な状況」と報じている。

昭和49年10月、崩れた桜島の南岳西側火口へき。当時の紙面は「19日朝、鹿児島市から桜島南岳の火口へき東側の内部が見えた。この1カ月あまりの活発な火山活動と風雨で西側火口へきの土砂が内部に崩れ落ちたためとみられる」と伝えている。

昭和49年11月15日午後、ライバル・垂水フェリーの出現で寒風がひときわ身にしむ桜島フェリー。紙面では「南海郵船の垂水フェリー就航で、桜島町のドル箱・町営フェリーが大きく揺らぎ始めた。同町企業部の概算では、これまでのところ乗客、車とも2割減。夜間には車一台ない便も出ているという。予想はしていたものの不安が現実となったいま、同町関係者は改めて事態を深刻に受け止め、施設改善など本格的な対策を急いでいる」と報じている。

昭和49年6月に“潜水記録”をつくるなどは華々しくデビューした「桜島オーシャンパーク」の目玉の潜水艇「マークテン」。桜島町が、新しい観光の目玉として袴腰に誘致したオーシャンパークだったが、オープン早々の客の海中転落事故が潜水艇の構造上の問題にまで発展。海上保安部、海運局が艇の営業中止を出した。目玉の潜水艇を失った同パークは客足が遠のき、つまづくこととなった。

昭和51年5月13日午前10時、垂水市牛根麓、桜島爆発による降石の直撃でリアウインドーを割られた普通自動車。紙面では「桜島の爆発の規模は中規模だったが、桜島口では直径25センチというかつてない大きな軽石が降り、牛根では25台の車のガラスが割れ、収穫期に迎えたビワに大きな被害が出た。噴石を伴う爆発は、昨年10月以来だがかなり大きな噴石が人家近くまで飛んできただけに住民は不安がっている」と報じている。

昭和54年1月、桜島南岳は元日から爆発、噴煙と活発な活動を繰り返し、桜島南東部や垂水市などは猛烈な降灰に見舞われた。当時の紙面は「上空をおおう“灰軍団”に初春の太陽は影をひそめ、薄暮の暗さ。街路でもせっかくの日の丸もかすみ、正月気分も吹っ飛んだ感じ。『正月早々から降らんでもよかとに』。ホースで水洗いしていた店の主婦が苦々しくいう」と伝えている。

昭和54年1月、新年から盛んに爆発を繰り返す桜島南岳。ひっきりなしの噴煙が肝付・曽於地区の住民を嘆かせた。当時の紙面では「昼なお暗い垂水市。車は前照灯をつけ、ノロノロ運転。『桜島さん、噴くのは十分です。もうやめて。季節風さん吹かないで』-大隅半島の住民の願いは切ない」と伝えている。

昭和54年1月、活発な活動を続ける桜島南岳が爆発。約3000メートルの噴煙とともに噴石を飛ばし、垂水市の国道では7台の車のフロントガラスが割れる被害がでた。「走行中の普通乗用車のフロントガラスがメチャメチャに割れたのをはじめ、ものすごい勢いで空から降ってきた火山れきでフロントガラスがメチャメチャに破損した車が多かった。被害者の話では『一瞬あたりが真っ暗になったあと、噴石がバラバラ落ちてきて、またたく間にひび割れた。』」と紙面は伝えている。

昭和54年11月、桜島の噴煙に全日空にトライスター2機が相次いで突っ込み、操縦席のフロントガラスにヒビが入った。このため2機とも目的地までの飛行を断念。始発空港に引き返した。当時の紙面は「この朝、鹿児島空港周辺は約2000メートル上空まで厚い雨雲におおわれ、両機長とも噴煙に気づくのが遅れて突っ込み大きな火山灰がフロントガラスに当たったらしい」と伝えている。

昭和54年10月、桜島は4回も爆発。当時の紙面は「噴煙は折からの強風に乗り鹿児島市内南部を中心にドカ灰を降らせた。地上に積もった灰も風に高く舞い上がり再三、再四の“襲撃”。おまけに鹿児島地方は今月に入って雨無し晴天が続いている。カラカラ晴天と縦横無尽の灰。市民にとって桜島憎しの感情が、またまたぶり返しそうな気配」と報じている。

昭和54年11月、同年9月以降噴煙活動を強めていた桜島はさらに活性化。当時の紙面では「10日には1回の爆発で鹿児島市古里町一帯に記録的な超ドカ灰を降らせた。改新小学校の鉄製の記録箱は見る間に埋まり、約1時間後の量を翌日乾燥して計ったところ18.1キロを記録。山や畑がグレー一色に塗り固められ、ミカンや野菜類などの被害額は2000万円以上にのぼった」と報じている。

降灰禍に見舞われた昭和60年7月、鹿児島市天文館。桜島南岳が爆発、粒子の粗い灰が「ザーッ」と音をたてて日曜日の繁華街に降り注いだ。

昭和60年7月、鹿児島市千日町。記録的な降灰に見舞われた街は朝から市民総出で除去作業。市から配布された降灰袋は使い果たすほどだった。

昭和59年6月、鹿児島市加治屋町交差点。桜島南岳の記録的な火山灰に直撃された鹿児島市街地では、電車軌道敷に消防自動車が初出動、消防士がポイント部分に放水し灰を除去した。

昭和60年2月、垂水市では桜島降灰が続き、側溝に灰がたっぷり詰まり、取り除く作業に追われる。紙面では「記録破りの噴火で、垂水市には1月だけで前年1年分の2.7倍にも達する降灰。1平方メートル当たり約34キロ。過去7年間の降灰量を上回り、観測史上最多の“豪灰”だ」と伝えていた。

昭和60年2月25日、桜島が爆発し、垂水市方面に噴石や火山灰が降り注いだ。当時の紙面によると「桜島南岳の爆発が数回続き、地震のような揺れがあった。垂水市牛根麓付近では直径5、6センチの噴石がたたきつけた。桜島のふもと、鹿児島市有村町では駐車していた車のフロントガラスに噴石が当たって割れた。電話ボックスにもガラスが粉々に割れる被害があった」などと報じている。

昭和60年7月30日、ドカ灰の直撃を受けた鹿児島市城南町のガソリンスタンドの店頭に登場した“灰ダルマ”。当時の紙面は「『手も足も出ません』と白旗を掲げるこの灰ダルマ。かきあつめた灰の量150キロを見て、所長らがちゃめっ気を出して仕立て上げた。通りがかりの車からのぞきこむ人もいる」と紹介している。

昭和60年7月26日、桜島の降灰で鹿児島市の日豊本線踏切3カ所で警報機と遮断機が誤作動。当時の紙面では「日豊本線の下鳥越、上鳥越凌踏切が警報機が鳴りっぱなしになった。また諏訪踏切の遮断機は降灰のため上がらなくなった。線路に灰がつもり、車輪との間に絶縁状態が起き電流が流れず、誤作動をおこしたらしい」と伝えている。

昭和60年2月25日、桜島南岳が爆発し、噴煙が4000メートル以上上がり、火山れきや噴石が垂水方面に降った。当時の紙面によると「24日の噴火はことし51回目。爆発音、体感空振ともに『大』で、大量の火山灰とともに火山れきや噴石を、鹿児島市有村町や垂水市牛根、同市海潟一帯に降らせた。走行中や駐車中の自動車のフロントガラスなどを直撃し、県警の調べによると被害を受けた車は40台以上。火山雷も観測された」と伝えている。

昭和60年6月17日、カラ梅雨で降灰続き、鹿児島市内では散水車やロードスイーパーがフル回転した。当時の紙面は「連日の噴火で鹿児島地方は、巻き上げられた灰でモウモウ地獄。国、県、市のロードスイーパー13台、散水車14台が出動した。市街地ではまきあげられた灰に市民も苦い顔。雨も降らないのに傘が手放せない状況」などと報じていた。

昭和60年7月29日、鹿児島市の中心街でバラバラと音をたてて降る桜島のドカ灰。紙面によると「桜島の噴火活動は8日連続して鹿児島市にドカ灰をもたらした。夜に入っても、市街地天文館に『ザーッ』と音をたてさながら雪のように降り、火山灰特有の硫黄臭が漂った。道行く人は傘をさし、ハンカチやタオルで顔を覆い、あわててアーケードに避難していた」と伝えている。

昭和60年7月7日、桜島南岳の爆発で多量の噴石が鹿児島市有村地区に降り、噴石の一つが集落の木造小屋を直撃、屋根や天井と二階の床までぶち抜いて地中にめりこんだ。当時の紙面では「噴石は推定で直径1メートル前後。幸いけが人などはなかったが、隣接して住家などもあり、少しそれれば惨事になるところだった。屋根には約2メートル四方の穴があき、太いはりなどもへし折られていた。噴石の熱で小屋の一部が焼けた」などと報じている。

昭和60年7月28日、黒煙に襲われる鹿児島市のいづろ通り。「降りそそぐドカ灰に逃げまどう市民たち」

昭和60年9月9日午後4時44分、鹿児島市中山町から撮影した高さ4000メートルまで上がった桜島の噴煙。紙面では「爆発後も噴煙が連続、風が弱かったためか、上空で大きく『Y』の字形に広がって滞留、灰雲がいくつもの層をつくった。まもなく噴煙は東の方向へゆっくり流れ始め、鹿児島市黒神町や垂水市牛根境などでは目も開けておれないほどのドカ灰となった。曽於郡輝北町でも路面がたちまち白っぽく染まった」と報じている。

昭和63年7月22日、鹿児島市民文化ホールで開かれた桜島との共存を語り合う合同シンポジウム。7月19日から23日の5日間「火山と人との共存」をテーマに鹿児島市で開かれた鹿児島国際火山会議は、日本を含む世界30カ国の学者、研究者らが集まって、噴火予知、防災、産業振興などに関する370件の研究成果が発表された。県によると、発表者を含む入場者は予想をはるかに上回る延べ約7400人に上った。

平成9年2月、監視機能がほぼ完成した鹿児島市野尻町の「桜島土石流発生集中監視施設=愛称・桜島国際火山砂防センター=」。センターでは桜島の九河川沿いに設置した約30台の監視カメラや、九州の3カ所にあるレーダー雨量計でとらえた桜島の気象データを集中管理し、土石流発生時に砂防工事関係者らに避難情報を送る。2月14日に直轄砂防事業20周年の記念式典を開き、監視施設の運用を始めた。

桜島南岳5回目の噴煙

桜島観測4カ所に地震計設置

桜島の一周避難道路開通

桜島古里近くに噴石

すごい爆発のツメあと

京大、桜島の観測を強化

多量の降灰、桜島の爆発続く

噴煙、最高を記録

桜島の南岳が連続爆発

京大桜島観測所が開所

桜島の爆発、盛んに

降灰に市民ウンザリ

鹿大桜島観測所が開所

鹿大桜島観測所、爆発予知に威力

第二桜島丸、就航

桜島桟橋、なくなる”青空待合所”

第八桜島丸、就航

桜島桟橋、乗降デッキ工事進む

桜島桟橋、待合所完成

桜島桟橋、3代2組が渡りぞめ

桜島桟橋、人気呼ぶ新待ち合い所

第一桜島丸、就航

桜島、無気味に有色噴煙

桜島、火口に溶岩50万トン

桜島、1600メートルの噴煙

町もかすむ”灰の雨”

桜島、夏空高くキノコ雲

灰かぐらの町

桜島、流れ落ちる噴石

桜島、火口に溶岩40万トン

灰かぐらの鹿児島市、電車も立ち往生

桜島、溶岩せり上がる

人も車も灰まみれ

桜島で落石

桜島火口、航空写真で調査

桜島、4合目まで噴石

桜島観測の地震計を吉野台地に設置

桜島、B火口くずれる

袴腰港、待合所改築へ

第三桜島丸、就航

桜島フェリー 可動橋が完成

潮干狩り始まる

第十桜島丸がお目見え

桜島フェリー 20年変わらぬ運賃

ミカンの代わりに植えられた”ツガ”

降灰に見舞われる桜島の畑

降灰の影響でマスクをかけ掃除する児童

降灰で真っ暗になった鹿児島市上空

連続的に噴煙を上げる桜島

崩れた桜島の南岳西側火口へき

客、車ともに2割減?桜島フェリー

”目玉”の潜水艇 浮上せず

石の雨 車直撃ガラス割る

噴煙連発”黒い正月”にウンザリ

国道220号に降灰 ライトつけてノロノロ運転

桜島南岳、猛烈噴石 車7台ガラス破損

桜島の噴煙に突入 操縦席ガラスにヒビ

桜島が活発化し、降灰を掃除する鹿児島市民

記録的な降灰 1平方メートル18キロ

黒い雪

市民総出で降灰除去

降灰除去に消防車出動

豪灰記録破り、側溝も詰まる/垂水市

噴石で自動車のフロントガラス割れる/桜島

”灰ダルマ”も白旗だ/鹿児島市

踏切遮断機が誤作動/鹿児島市清水町

最大規模噴煙4000メートル 桜島爆発

灰地獄、ロードスイーパーはフル回転

”黒い雪”8日連続ドカ灰/鹿児島市

噴石が集落を直撃、屋根に穴

黒煙覆う

ドーンと1発4000メートル

「新桜島学」の1頁開く

砂防センターの監視機能完成
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