折り鶴をささげる春田真未子さん=6日、広島市の平和記念公園
「被爆2世として母の思いを代弁していきたい」。6日、広島市であった平和記念式典に県代表として参列したのは鹿児島県薩摩川内市祁答院の春田真未子さん(62)。9歳の時に被爆した母の理恵子さん(87)は体力を考え参加を見送った。真未子さんは母親の分まで平和を願い、手を合わせた。
78年前、広島市で被爆した理恵子さんは小学校4年生だった。断片的な記憶しかないが、父親に手を引かれ、爆心地から約3.2キロの自宅まで向かう途中、「水を下さい」と倒れた人に足を引っ張られた情景だけが脳裏に焼き付いているという。
道路は、皮膚が焼けただれた人で埋め尽くされていた。肩に掛けていた水筒のひもをきつく握りしめ、必死に足を進める。地面にはいつくばる人を踏みつけ、飛び越えた。今でも理恵子さん自身を苦しめる記憶に、真未子さんは「『戦争』なんて一言ではとても言い表せない壮絶な体験だったと思う」と寄り添う。
コロナ禍もあり、最後に参列したのは4年前。以前は2人で数回広島を訪ね続けたが、今回は初めて真未子さん1人で平和記念公園に赴いた。岐阜県から理恵子さんの妹、西田詩津子さん(80)も駆けつけ、2人で被爆地を回った。
<地獄絵図消してはならぬ原爆忌>
親子共通の趣味は俳句創作だ。理恵子さんは鹿児島で式典に思いをはせながら詠んだ。経験した地獄は伝え継がなければならないとの決意がにじむ。
<黙祷とシュプレヒコール蝉の声>
式典後、真未子さんもノートに書き込んだ。祈りをささげる静寂の後、式の進行を阻むように外からは政治的なデモの声が聞こえ、セミは地の底からわくように鳴いていると感じた。「まるで国籍、人種、宗教が異なる人々の思いが飛び交うよう。一生の大半を地中で過ごすセミの鳴き声が、街に眠る犠牲者の、魂の叫びに思えた」
世界情勢は緊迫し、核廃絶の道は遠くみえる。「母が話してくれたように、自分が若い世代へ核兵器の恐ろしさをつないでいかなければ」。汗を拭い、「原爆の子の像」前で数秒間目を閉じた。